大学がつまらない、仕事がつまらない...こんな文句を言っている人はいつまでたっても人生を充実させることはできないと加藤諦三氏は語る。苦しみのない人生は不幸だと語る真意とは何か。本稿では、人生がつまらないと感じる人に向けて、苦しみこそ生きがいを生み、そのためには責任を負うことが重要だと語る一説を紹介する。
※本稿は、加藤諦三著『「自分」に執着しない生き方』(PHP研究所)より一部抜粋・編集したものです。
「つまらない」と言い続ける人生なんて
大学紛争の時、よく学生がこういう。「大学はつまらない、授業はつまらない」そして、そういう言葉を大人たちが同情をもって聞く。そのあと「もっともだ」といい、「君たちの気持ちはわかる」といい、だれもかれもが「だけど、ストライキというやり方には反対だ」という。
僕は彼らの気持ちがわかるからこそ、その行動に反対なのである。大人は「その気持ちはわかるけど、その行動には反対だ」という。僕にいわせれば、学生も大人も生きがいをもって生きるということが、いかに厳しい生活を要求されるかを知らないのである。
同じ大学で、生きがいをもって生きている連中はたくさんいる。マラソンの選手だって、ボクシング・クラブの連中だってそうだ。ただ彼らは、吐いたり倒れたりの苦しさに耐えて生きているのだ。
あるボクシングの日本チャンピオンは「苦しむためにボクシングをやっている」といったと聞いたことがある。そしてそのあと「しかし、この苦しさがなければ僕はボクシングをつづけられなかったろう」といったという。
苦しむこと、それが生きがいなのである。生きがいとは、けっして楽をすることではない。生きがいがほしければ、学生はもっともっと厳しさを求めなければならないのだ。それが学生としての第一の道なのである。
それに、大学がつまらない、授業がつまらないというが、いったい彼らにとって、おもしろいものが何かあるのか。大学がつまらないということはたしかにある。しかし、その言葉を聞くと人々は、まるで学生にとってつまらないのは大学だけだと思ってしまうのだ。
学生にとって、つまらないのは大学だけではない。授業だけではない。何もかもがつまらないのである。大学の内だろうが外だろうが、どこにいても彼らはつまらないのである。ではいったい、どうしてつまらないのだろうか。その理由を説明するために少しちがったほうからはいっていく。
僕は先日、サイン会というのをやらされた。それをいわれた時、だいたい人が集まるのだろうか?と疑問に思ってことわった。出版社と書店に迷惑をかけるだけで、だれも来ないのでは申し訳ないと思ったからである。
しかし、どうしてもというので恥さらしを覚悟で引き受けた。幸い多くの人が来てくれた。だが考えてみれば、サインほどバカバカしいことはない。せっかくのきれいな本に、僕のきたない字がデカデカと書き込まれるのだから。
それをしてもらうために、わざわざ遠くから、決められた時間に決められた場所に来るというのだから、まったくおかしいといえばおかしい。
しかし僕は、何も自分の本にサインをしてくれといってきたからといって、その人たちをほめるわけではないが、何か普通のデレデレしている無気力、無関心、無責任の若者より元気に見えた。
生きがいを求めるなら責任は避けられない
かつて、ある大学紛争の時、僕の知っている学生が機動隊導入に反対した。しかし、僕は日ごろから彼が、何かというと責任者になることをのがれていたことを知っている。人の集まりにはでていく。しかしその場で、自分が何かの責任者になることをいつも避けていた。
自分が何かの責任を負わされることを避けていた彼が、機動隊導入に反対した。僕は彼の反対が、いつもの態度から責任ある反対でないことを知っていた。ただ空虚な理想論としての反対だったのである。
その「反対」というなかには「自分」は全くいなかった。つまり反対によって自分は何も傷つかないから反対したのである。反対によって、自分が何らかの責任を問われることがないから反対したのだ。反対することのほうが格好いいから反対しただけである。もっと言えば反対しないと不安だったのである。
だがその時、大学学長は「私の責任において機動隊を導入したい。まげてご承知ねがいたい」といったのだ。どっちが立派であるかは明らかである。その紛争において、たとえ機動隊導入がまちがっていたとしても、それに反対した学生は動機としては断じて正しかったのではない。
たとえ機動隊導入がまちがっていたとしても、心理的には学長は正しく、学生はまちがっていた。僕がくりかえし主張していることのひとつは、キリストと同じことをいったからといって、キリストと同じにえらいわけではないということである。
マルクスの本を読み、そのままのことを丸暗記よろしくしゃべることで、何か自分がマルクスと同じように偉大になったような錯覚におちいっている人がいる。
どのようなことをいっても、どのようなことをしても、そこにその人の責任が落ちているのなら、その人は責任をもって行動するどのような人にも劣っている。他人の決定に身をまかすほど、気楽なことはない。しかし、そこからは何も得られない。
自己の運命の主体者としての心の重荷に耐えられないものは、生きがいもまた、あきらめなければならない。自己の責任において行動しているものでないものは、マルクスの陰にかくれても、キリストの陰にかくれても、主体性を失った大衆社会の一員である。
主体性を叫ぶことと、主体的に生きることとはちがうのだ。主体性を口にしていると、その自分の言葉に酔って、いつのまにか自分が主体的であるかのごとく錯覚する。
変革を説く者は必ずしも変革者ではない。責任者として生きること、運命の主体として生きることがいかに大変かは、なにも大それたことを想像しなくてもわかる。
単純なパーティーひとつやる時を考えればいいのだ。自分が人を呼んで自分の家でパーティーをする時、あれはうまくいくか、この人は来てくれるだろうか、みなが楽しんでくれるだろうかと気になるだろう。しかし、人に呼ばれて誕生パーティーに行く時は何と気楽なことか。
いや、もっともっと単純なことを考えてみよう。結婚式のパーティーで、自分がスピーチをやらされて出席する場合と、そうでない場合を考えてみよう。若い女の子などは、スピーチをやらされるというだけでドキドキしている。いや何かの会をやる時、そこに出るのがいやだといった人がいる。
なぜか?と聞いたら、行けば必ず自己紹介をさせられて、また、そこで何かの意見を聞かれる。それがいやで会に出席しないというのだ。そこには行きたい、しかし何か聞かれるのがいやだ、何もいわなくてよい、ただそこにいたいのだ、と──。
こんな日常の単純なことを考えても、責任を伴う心の重荷というのがわかってもらえよう。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。