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なぜ日本の中高生は挙手ができなくなったのか?

太田肇(同志社大学教授)

2022年12月20日 公開

日本の学生は、授業で挙手すること、発言することに消極的である場合が多い。逆に、空気を読まずに振る舞う学生は「浮いた存在」と見なされてしまう。こういった環境の原因はどこにあるのか。同志社大学教授の太田肇氏が解説する。

※本稿は、太田肇著『何もしないほうが得な日本 社会に広がる「消極的利己主義」の構造』(PHP新書)から一部を抜粋・編集したものです

 

授業で挙手すると冷たい視線

中学や高校の教室では、授業中に教師が「答えがわかる人!」と問いかけても、だれも手を挙げない。教室は静まり返り、教師は生徒が反応しないのを見越しているかのように一方通行の授業を続ける。

日本の学校で昔からごく普通に見られる風景だが、帰国子女や海外からの転入生の目には異様に映るという。みんなが周りの目を強く気にしている様子が伝わってくるからだ。

「2022年ウェブ調査」では高校生に対し、「授業中にわかっていても手を挙げなかったり、自分の意見を言わなかったりすることがありますか?」と聞いた。

すると「よくある」「ときどきある」という回答が計89.7%と、ほぼ9割を占めた。なお性別では、男子より女子のほうが若干多い傾向がある。つぎに「よくある」または「ときどきある」と答えた人に対して、その理由を聞いた。回答のなかで10件以上のものはつぎのとおり。

「間違っていたら恥ずかしい」(81件)
「恥ずかしいから」(58件)
「面倒だから」(53件)
「自信がない」(31件)
「目立ちたくない」(30件)
「みんなが答えないから」(23件)

表現は多少異なるものの、「面倒だから」を除けば、いずれも周囲の目を気にして手を挙げない現実を表している。多くの生徒が、教室の空気に支配されているといってよいだろう。

では、学習環境が高校生と異なる大学生はどうだろうか。私の講義に受講登録している学生に2022年6月、ウェブアンケートで同じ質問をしてみた。なお1、2年生のほぼ全員が受講する科目なので、この講義を受講する者特有の偏りは小さいと考えられる。

回答者187人のうち、「よくある」が48.1%、「ときどきある」が34.2%で、肯定する回答が合わせて82.3%を占めた。高校生の数値とそれほど変わらない傾向が見られる。

また理由についても、「間違っていたら恥ずかしい」「恥ずかしい」が多数を占めるなど、高校生の調査結果と似通っている。高校生・大学生の両方を通してみると、やはり独特の組織風土が大きく影響していることがうかがえる。

日本の学校は会社など他の組織以上に閉鎖的、均質的である。とくに中学生や高校生の場合、学校やクラスのメンバーは入れ替わりが少なく、多くの生徒は学校中心の生活を送る。

部活動も、地域のクラブなど外部の団体に参加する欧米と違い、学業の延長として主に校内で行われる。

また中学校は校区が限定され、高校になると入学難易度などで輪切りにされる。そのため共同体としての性格が強く、濃い空気が学校やクラスのなかを支配するようになる。いわゆる「同調圧力」である。

さらにクラスのなかには、いっそう閉鎖的で均質的な仲良しグループができる。仲がよいほど友だちの言動が気になり、仲間に好かれようとする。少なくとも嫌われることを恐れる。

しかも学校にいるときだけでなく、四六時中SNSでつながっているので、少し目立つとグループ内で「今日の○○、ちょっといつもと違っていたよね」といった会話が交わされるという。

そのような「浮いた」行動が続くと仲間から無視されたり、グループから除外されたりするようになる。

興味深いのは中学や高校と違って講義ごとにメンバーが入れ替わり、学校以外の生活がかなり大きなウエイトを占める大学生の場合にも、教室のなかは高校生と同じような空気に支配されていることだ。

おそらく、それは高校までに経験したクラスの空気、ならびにそこで身についた行動規範が、ほぼそのまま大学にも持ち込まれているためだと考えられる。客観的な環境は変わっても、一人ひとりが最初にとる態度や行動は、デフォルトとして設定されているのだろう。

さらに、それが就職後の会社組織にまで持ち込まれたとしても不思議ではない。

 

「浮いてはいけない」が、自発性を奪う

焦点を中学や高校に戻すと、校内の部活なども閉鎖的、均質的な構造は仲良しグループと似通っていて、同じように相互抑制的な空気を生みやすい。しかも部活になると容易に退部できないぶん、仲良しグループより「違反」を許さない圧力はいっそう強くなる。

いじめや暴力事件が部活の場、あるいは部活に関係した共同生活の場で起きやすい一因はそこにある。

このように大人の世界よりもはるかに濃密で狭い人間関係のなかにいる生徒たちが、仲間から浮いた存在になることは、大人が想像する以上に苦しいに違いない。生徒たちはそれをよくわかっていて、仲間はずれにならないよう自重するのだ。

ちなみに欧米をはじめ海外の学校を覗くと、活発に発言する生徒の姿が印象的で、「空気」や周りの目を意識して発言を控える姿は見られない。学校の外にも帰属集団を持つ子が多いうえ、幼児期からの教育や生育環境の違いも影響しているのだろう。

いずれにしても学校生活を通して強化された習慣や行動規範は学校生活のなかだけにとどまらず、校外における社会生活にまで持ち込まれる。

数年前の出来事だが、いまも私の脳裏に焼き付いているシーンがある。真夏の甲子園球場で行われた全国高等学校野球選手権大会、開会式でのことだ。選手の入場行進が終わり、選手たちはそれぞれのプラカードを掲げた女子生徒の後ろに整列した。

静寂に包まれたグラウンドで突然、プラカードを持つ一人の女子生徒がバッタリと地面に倒れた。テレビ画面を見ていた私は思わず息をのんだ。さらにショックだったのは数秒間、そばの選手たちがだれも自分から助けようとしなかったことである。

たとえ数秒間とはいえ、倒れている生徒が放置される光景は異様に映った。

私はその場にいた生徒たちを非難するつもりはない。おそらくほかの生徒がこのような場面に遭遇したとしても、自ら助けに行くことはできなかっただろう。周りの目を気にせず、自分で判断して行動する習慣が身についていないからである。

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「空気」はプラスに働くときもあるが...

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