ジミンが到達できる「美しさ」には限界があるのか?
ジミンは自分の手足を静かに見下ろした。節制、信念と態度の一致、誠実性、訓練された知性、バランスの取れた生活、他者への配慮、障害への完全な自己受容、このすべてを達成したにもかかわらず、彼女が到達できる「美しさ」には限界があるのだろうか。
彼女はヒョノにふられたあの日を思い出すたびに、ただジミンが「ヒョノの理想のタイプ」ではなかったせいだと考えることにした。合理的に考えればこれは事実だろう。
ジミンは、自分がヒョノの前でコーヒーカップを倒した瞬間を繰り返し思い出してしまう。プラスチックの容器に入っていたコーヒーはそれほどこぼれなかったし、ヒョノは確かに無表情に容器を元に戻した。
ジミンはそれ以前にもミスが多かった。フォークを落としたり、食べものを飛ばしてしまったり、ヒョノの前で敷居につまずいて転んだこともあった。恥ずかしかったけれど、その程度のミスはジミンの身体の特性のせいであり、よくあることだった。みなそうしたことに慣れていた。
しかし、あの日はいつもとちがったのではないか。もしかしたら、ヒョノはジミンの告白に心が動いたのかもしれなかった。彼はジミンを長い間見てきただけに、ジミンの「優雅でない」動きを、彼女の人生全体として見たのではないだろうか。
不自然な動きであっても、彼女の人生のきらめく要素として絵を描き、スナップショットでは奇異に見える動作でも、長い時間軸から眺め、その中のやわらかい曲線を知覚する人であったはずだから。
ところが、よりによってその告白の瞬間にジミンがコーヒーカップを倒したため、ヒョノは何か強力な「現実」と向き合ったのではないだろうか。もちろん、証拠などなく、単なる推論にすぎないが、そのような考えがジミンの頭から離れなかった。
ジミンはソヌをとても美しい人だと思い、ソヌの魅力を十分に認めることができた。そして、ソヌがだれにとっても「とても美しい」存在として考えられるという点にしばらく挫折感を覚えていた。
いい暮らしをしている人たちは、簡単にいい人になれる
ジミンは、自分は美しい「肖像画」を描くために人生全体を優雅にまとめなければならないと考えた。ふらつく姿勢、ゆっくりした話し方、勝手に動いて何度もミスを引き起こす自分の筋肉を、長い時間しっかりした中心軸に一体化させなければならない。
しかし、「いい暮らしをしている人たちは、簡単にいい人になれる※1」ように、バランスのいい美しい線で構成された身体の人間は、少し努力すればいとも簡単に美しい肖像画になれると思った。
もちろんこのような考えはたびたび浮かぶだけで、ジミンは立体的で多層的で密度の濃い美しい人間に戻った。ヒョノがつまらない画家で、頭でっかちの愚か者に過ぎなかったのかもしれない。
※1 2018年春、tvNで放映された『私のおじさん(邦題:マイ・ディア・ミスター〜私のおじさん〜)』第4話で、主人公のイ・ジアンが語ったせりふ。