「人は、他人を歪んで解釈する。相手そのものを見ているのではなく、相手に映った自分の願望を見ているのである」こう指摘するのは、ラジオ番組「テレフォン人生相談」を、半世紀以上続けてきた加藤諦三氏。
また、安定した人間関係が築けない人の中には、「心に深い孤独」を抱え、自分の深刻な劣等感や心の傷を癒すための、刹那的な関係を求めてしまう人も多いという。
ではどうすれば、心を回復させ自立する事ができるのだろうか。加藤氏に、思考の癖を直す方法を聞いた。
※本稿は、加藤諦三著『なぜか恋愛がうまくいかない人の心理学』より、一部抜粋・編集したものです。
他者を通して自分の願望を見ている
人は、他人を歪んで解釈する。相手は自分にとって理想の男性、女性であってもらいたい。相手は「こうあって欲しい」という願望が物凄い。
するとその自分の願望を相手を通して見ている。相手そのものを見ているのではなく、相手に映った自分の願望を見ているのである。現実の相手にはない特性を相手に与えてしまう。それが外化である。
「私の夫は決して浮気をしません」と言う奥さんの思いが外化である。その夫の下着から女の髪の毛が見つかって大騒ぎになる。
この奥さんは現実の夫を見ているのではない。夫を通して自分の願望を見ていただけである。夫と思っているのは、夫という鏡に映った自分の独りよがりの願望である。
外化とは他人という鏡に映った自分の心を、他人そのものと間違える心理である。自分の願望とは、「浮気など絶対しない夫が欲しい、私の夫はそういう夫であるべきだ」ということである。
それを現実の目の前の人と思い込む心理である。「あばたもえくぼ」という言葉がある。自分の心の中にあるのが「えくぼ」、現実の相手が「あばた」である。
外化という心理過程を通して相手を見る。現実の相手を見ない。尊敬も、軽蔑も、現実の相手を見て、そう見ているのではない。自分が勝手に「相手はこうであるべき」と思って、相手をそう思っているだけである。
愚かな恋人達はよく、「裏切られた」と言う。しかし裏切られていない。「あばた」を勝手に「えくぼ」だと自分が思い込んでいたに過ぎない。
「急に親しくなる人」との関係は慎重に
一目惚れとは反対なのが年月を経て人が親しくなっていくことである。サン=テグジュペリの『星の王子さま』の中に次のような文章がある。
「ちがう、友だちさがしてるんだよ。〈飼いならす〉って、それ、なんのことだい?」
「よく忘れられてることだがね。〈仲よくなる〉っていうことさ」
「仲よくなる?」
「うん、そうだとも。おれの目から見ると、あんたは、まだ、いまじゃ、ほかの10万もの男の子と、べつに変わりない男の子なのさ。だから、おれは、あんたがいなくたっていいんだ。
あんたもやっぱり、おれがいなくたっていいんだ。あんたの目から見ると、おれは、10万ものキツネとおんなじなんだ。だけど、あんたが、おれを飼いならすと、おれたちは、もう、おたがいに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたったひとりのひとになるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ……」
急に親しくなる人は、お互いに心に問題を抱えている。だからトラブルを起こす。
自分の深刻な劣等感を癒すとか、敵意を共有するとか、お互いに孤独感を紛らわしてくれるとか、たまたま同じ人を憎んでいるとか、何かマイナスの感情を絆にするから急に親しくなるのである。
心理的に健康な人が親しくなるには時間がかかる。
親しくなるとは利害を共通にすることとは違う。共通の利害で親しくなった人は、もし次の場面で利害が対立すれば、昨日の友は今日の敵になる。
そうして離合集散するような人が急に親しくなる人である。心理的葛藤を抱えていなければ人が急に親しくなることはない。
同じ趣味をもっている人でも、心理的に健康な人は徐々に親しくなっていく。
急に親しくなったような人を見たら、あまり近づかないほうがよい。双方共に心理的問題を抱えているからである。巻き込まれると酷い目にあう。酷い目にあうとは、憎まれるということである。
また急に近づいてくる人も要注意である。また自分が急にある人に近づく場合も、自分を反省してみることである。
親しくはないけれども近い関係になる。心は触れていないけれども近い関係になる。
急に激しい恋に陥った2人がすぐに憎みあい刃傷沙汰になるように、同性であっても、それに近いことが起きる。
お互いに孤立して不安でいるとする。その2人がたまたま利害を共有するとする。あるいはお互いに敵が共通であったとする。何でも良いがそうした出会いがあったとする。
そうして出会えば急に親しくなる。正確には近くなる。お互いに相手をいい人と思っても、それは相手を見ている訳ではない。