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生き方

「私は悪くない」と現実を受け入れない人を待ち受ける、不幸から抜け出せない末路

加藤諦三(早稲田大学名誉教授、ハーヴァード大学ライシャワー研究所客員研究員)

2024年06月12日 公開 2024年12月16日 更新

人生は山あり谷あり。幸運な時もあれば、不運な時も当然あります。しかし、自分の不幸を受け入れられない人は、必要以上に苦しみ、幸せになる鍵をつかむことはできません。加藤諦三さんが、「不幸を受け入れる」重要性について語ります。

※本稿は加藤諦三著『無理をして生きてきた人』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。

 

恨みを晴らせればいい、という人

不幸を受け入れられない人は、必要以上に苦しむ。神経症的要求を持つ人は、自分の人生に建設的関心を失った人である。

例えば人を責めている。自分の不幸な過去にこだわる。無気力で前に進めない。解決を目指していない。文句を言うことが人生の主眼である。まず恨みを晴らす。

もちろん不幸を受け入れられない人には、人に恨みを持つだけの無意識の必要性がある。隠された怒りがある。自分の人生はどうなってもよい。恨みを晴らせればよい。

そうなると、なによりも大切な共同体感情と無縁になる。現実を受け入れれば、自分にふさわしい目的が自然と分ってくるのに、死ぬまで不幸な人は現実を受け入れていない。

 

不幸を受け入れて、自分を受け入れる

他人に優越する緊急の必要性がある限り、自分を受け入れることはできない。不幸を受け入れることはできない。他人に優越する緊急の必要性がある限り、共同体感情は生まれてこない。

「不幸を受け入れる」ことができるということが、自分を受け入れるということでもある。他人を理解することができるようになるということである。これが強い性格の人である。共同体感情を持った人である。たくましい人である。

ある大学生は、障害者支援室に行くことを心が拒否していた。しかし、白杖を持って障害者支援室に行ったことで、世界が広がった、友達ができた。自分がどう生きるか、見えてきたと言った。

私は、なにが障害者支援室に行かせたのかと聞いてみた。すると、「このままではだめだという、寸詰まり感というか、ここをなんとかしなければ、退学するしかないというような感じですかね」と教えてくれた。

「不幸を受け入れる」ということが、新しい視点ができるということである。「自分がすることが見えてくる」ということが、新しい視点ができるということである。自分の原点を見つめて、そこから出発する。その時に初めて、ありのままの自分を受け入れることができる。

「不幸を受け入れる」ことと、適切な目的を持つことは同じである。どうしても適切な目的を持てない人は、自分の過去を反省することがなにより重要である。

 

弱さを認めることが強いということ

性格の弱い人である神経症者は「不幸を受け入れる」ことができないと同時に、自分の弱さも受け入れられない(註1)。

神経症者は弱さを嫌う。それは自分がいかに弱いかを心の底で知っているからである。そしてその弱い自分を自分が受け入れられないからである。他人もまた弱い自分を受け入れてくれないと間違って思っている。実際はそんなことはないのだが、成長期の人間不信が心の底にしっかりと根を張っている。

従って、弱いことが恐怖感につながる。困った時に、誰も本当には自分を助けてくれないと感じているのである。だから弱さを嫌う。

成長期の困った時に、養育者から助けてもらって安心感を持って成長した人と、誰も助けてくれないで成長した人の違いは大きい。同じ人間ではない。弱さと不幸を受け入れさえすれば、人は幸せになれる。だが、成長期に自分の弱さを保護してくれる人がいなかった人には、なかなかこれができない。

自分を保護するものは力しかない。そこで力を求めて奮闘努力する。もし、その奮闘努力で社会的に成功しても、自我の弱さそのものには変わりはない。「内なる力」がいよいよ破壊されている。しかも社会的成功の中で実際にはその人の「内なる力」の芽が摘み取られていくことに気がつかない。

「すべての悩みがなくなるような力を求めてはいけません」とエピクロスは言っている。この言葉はシーベリーの「不幸を受け入れる」と言うことと同じ内容を別の言葉で表現している。

悩んでいる人は、その悩みを完全に、かつ直ちに、そしていとも簡単に解決できる方法を求める。そこで現実にある解決方法を拒否してしまう。ないものばかりを求めていて、目の前にある物を無視する。だからいつまでたっても悩み決しない。悩んでいる人を見ていると、いつまでもできないことにかかずらっている。

本当に強い人は、自分の弱さを受け入れている人である。本当のスーパーマンとは、自分の弱さを受け入れている人である。そして自分の弱点が表われても落ち着いていられる人である。苦悩能力のある人である。また弱さを受け入れてくれる人を周囲に持っている人である。

不幸を受け入れる人が、レジリアンスのある人である。逆境に強い人は、レジリアンスのある人である。人間の場合、弱さを認めることが強いということである。弱いところのない人間など人間ではない。それはおばけである。

シーベリーは「自分の弱さを受け入れれば、失敗は少なくなるはずです。完全であろうとあがくとかえって失敗します」と述べている。「完全であるべきという基準は、ずっと災いのもとです」とも述べている。完全であろうとすることによって人間の能力が破壊されるというのである。

自分の弱点を受け入れている人は、性格的には強い。自分の弱点を受け入れていない人は、性格的には弱い。

性格が強いとは、意識と無意識の乖離がないことである。成長と退行欲求の葛藤はあるが、成長欲求を選択できる人である。成長の症候群に従って生きる、ということである。人とコミュニケーションできる。嫉妬、妬みがない。心が触れ合う親しい人がいる。つまり不幸を受け入れる人は、共同体感情がしっかりとしている。

(註1)The Neurotic Personality of Our Time, W.W.NORTON & COMPANY, 1964, p.16

 

長い人生には、幸運な時もあれば不運な時もある

くり返し言うが、不幸を受け入れると、するべきことが見えてくる。しかし「私は悪くない」と言い張ってしまうと、するべきことが見えてこない。

長い人生には、幸運な時もあれば不運な時もある。不運の時にジタバタしないで、「今は、そういう時」と覚悟を決めて、幸運の時を待つ。それが不幸を受け入れるということである。

不運な時に幸運な人と自分を比べると、不幸は100倍になる。自分の運命を受け入れる人は、地獄で成長したことで、それが試練となり、人よりも強くたくましい人間になった。

その不幸を受け入れる。すると、「自分は今、生きていることだけで有り難い」と感じる。そして、いつも良いことが起きる人になる。

不幸を受け入れることができれば、間違いなく人は幸せになれる。物事が自分の望むように行かない時に不幸を受け入れている人は、「物事はそんなに上手くはいかない、相手がいるのだから」と思っている。

不幸を受け入れる人は、人生の意味を体験する。それはフランクルの言葉を俟つまでもなく、人間のもっとも価値のある態度である。ここが理解できない限り、不幸を乗り越えることはできない。

不幸を受け入れて、自分にふさわしい目的を持てる。幸せの鍵を手に入れることができる。現実を受け入れれば、自然と目的が分ってくる。

 

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