尾関宗園/あなたを強くする「大安心」で生きる知恵
2012年12月20日 公開 2024年12月16日 更新
《 『心配するな、なんとかなる』より》
とまれば、聞こえる、見えてくる
手があれば物がつかめる。足があれば自らを運ぶことができる ―― これだ。
お茶室に「喫茶去 〈きっさこ〉」という文字がかかっていることがある。「お茶を飲んで、さっさと帰れ」とか「お茶を飲んで帰ってください」という意味だと言う人があるが、違う。
「去」というのは置き字であって、「どうぞ」ぐらいの意味である。だから、「まあ、ちょっとお茶でも一服なさい」―― 程度に受けとっていただければありがたい。
ところで、私はこの「喫茶去」を、法話を聞きに来る人に、「とまれば、聞こえる、見えてくる」というように説明している。
心安らかに、心身一体となってお茶をいただくと、自然に「とまれば、聞こえる、見えてくる」、つまり、相手の言うこともわかり、いろいろなこともよく見通せるようになる、というのである。
お寺には学生さんが団体でお見えになることが多いが、集まっている学生さんたちの前に、衣姿で丸坊主の私があらわれると、一様に皆、静かに耳を傾けてくれる。だが、私が部屋に入っても、まだざわついていることもある。そんなとき、「コラーッ、静かにせんか。君たちはいったい何しに来たんだ。おれの話を聞きに来たんじゃないのか!」と怒鳴るのは賢明じゃない。「こんにちは!」と挨拶するとか、「ちょっと背すじを伸ばしてください」「肩の力を抜いて――」などと言うのがいい。自然と、学生さんたちの心は落ち着いてくる。
彼ら自身の中に「とまれば、聞こえる、見えてくる、視点を変えれば全体が見える、相手の立場になれる」が起こってくるのである。
そうなれば、話をする私のほうも自然な心と、聞く学生さんそのものの中にある自然な心とが歩み寄りを見せ、共鳴しだすのである。
私は、この「喫茶去」の状態を大切にしたい。自由で可能性が無限にある、世界全体が見える自分を大事にしたいのである。
14、5歳の学生さんたちにはこう言う。
「英語がいやになったら数学に変えてみなさい。数学がいやになったら国語に変える。ちょっと顔を洗う。深呼吸してみる。一杯コーヒーでも飲んでみる。家の裏を掃除するのもよい。
そして、“やあ、すまん、すまん、数学君、理科さん。ずいぶんお待たせしましたね”という出会い方をしてみる。
そうすると、数学や理科のほうから、“お坊っちゃん、一緒に遊んでほしかったんです”“お嬢さん、友達になりましょう”という具合に近づいてくる。
“しなければいけない”と思うから、いやになってくる。心が閉ざされてくる。そうではなく、自由な開けた心でものごとにあたる。そうすれば無限の可能性が開けてくる」
さらに続けて話す。
「1つのことに専念するということは、そのことと一体になる、ということだ。
英語に専念するということは英語の立場に立つということ。数学であれば数学の世界に自分を置くということ。そういう没頭した状態になれば、もはや、はかのことに気をとられることもない。没頭している対象との一体感も生まれてくる。心が自由自在になる。そして、全体が見えてくる。英語や数学、理科や社会に温かい拍手や熱い視線をおくってやる。君のその態度によって君の中に、英語や数学、社会や理科がどんどん育ってくれる。
これが、まさしく幸せの状態である。学問でいえば、どんどんわかってくる、どんどんおもしろくなってくる、そんな状態のこと。一体となった2つの幸せである。自分の幸せと相手の幸せ。幸せと幸せの出会いである」
実際、私の話を聞いている学生さんたちが、「ああ、いやだ。もういい加減にこんな話、やめたらいいのに」と思っていたり、「静かに聞かないと和尚さんに悪いなあ」というふうに思ったりすると、彼らの体の中にストレスがたまり、「聞こえず、見えてこず」があらわれる。
逆に、私が、「私の話を聞いていただいているからには、なんとか、1時間はこの状態を持続せねばならない」などと思ったりすると、私の中に負担感やストレスがぎゅうぎゅう詰めになる。そうなると、話す私と、聞く学生さんたちとは一体になれず、心と心が通い合うべき共鳴音叉の箱の中がゴミや紙くずでいっぱいになってしまう。
「とまれば、聞こえる、見えてくる、視点を変えれば何でもできる」という信じ切ったからっぽの状態、つまり大安心が消えてしまうのである。
また、こんなことを言ったりもする。
「先ほど、あれもできる、これもできるとお話ししたが、それは決して、明日、あさってでもできるという意味ではない。今のこの瞬間、場所はここ、での話だ。
一瞬一瞬こそが大事なのであって、“これまでこんなに頑張ってきたのに”などということは何の意味もない。逆に、“来週から頑張ろうと思っている”などというのも同じことだ。
人生は、今・ここ、での上映であり、リハーサルもない。タイムリミットもまた、今・ここ、である。それが、生命の構造なのだ。
『驢事いまだ去らざるに馬事到来す』というではないか」
人間の体の中で、細胞の寿命の長いものは筋肉や骨、肝臓、すい臓くらいで、ほかは生まれたら、ただちに死ぬ。われわれの体は、いつも、まっさらである。だから、今のこの瞬間を大切にする。明日からやめるというたばこは、いつまでたってもやめられない。やめたければ、今、ポケットに残っているたばこをこの場で捨てる、ということだ。
だから、「この本から何かを学びとってやろう」などと気負わないでいただきたい。
むしろ、この本をポイとごみ箱に捨ててしまったときにこそ、「とまれば、聞こえる、見えてくる、視点を変えれば世界が見える」という大安心が手に入るのだ。
尾関宗園
(おぜき・そうえん)
臨済宗の僧侶、大徳寺大仙院閑栖〈かんせい〉
1932年、奈良市に生まれる。高校3年のとき仏門に入り、以後、奈良教育大学を経た後、相国寺僧堂にて雲水修行を積む。1965年、京都大徳寺山内大仙院の住職となり、2007年、閑栖となる。院内でのユニークな法話(要予約)は、和尚の包容力ある人柄も加わって、いたって好評である。高齢を感じさせない、豪快・明朗な様子と堪能な英語を盛り込んだユーモアあふれる語り口は、訪れる人々に生きる力を与えてくれる。
主な著書に『不動心』『平常心』(以上、徳間書店)『大丈夫や! きっと、うまくいく』(KKロングセラーズ)などがある。