左から篠田真貴子氏、飯田史也教授、原田遼太郎氏、小林亮介氏
2026年4月5日、東京・世田谷区下北沢の居住型教育施設「SHIMOKITA COLLEGE(シモキタカレッジ)」にて開催されたケンブリッジ大学・飯田史也教授の新刊『あなたの一生を支える 世界最高峰の学び』(日経BP)刊行記念イベント。
イベント後半では、飯田教授、HLAB代表の小林亮介氏、HLABでカレッジ運営に携わる原田遼太郎氏、そしてモデレーターの篠田真貴子氏が、「学びにつながるコミュニケーション」をテーマに語り合いました。ケンブリッジの実践と、開業6年目を迎えるSHIMOKITA COLLEGEの現場から見えてきたものとは何か。セッションの模様をレポートします。
いかにケンブリッジの源流に近い形で実践できるか
【篠田】原田さんは、ここまで飯田先生のお話を聞かれていかがでしたか?HLABで日々見ていることと紐づくところ、あるいは「ここは違うな」と感じたところはありますか。
【原田】HLABではもともと、海外の大学の寮をコンセプトにしながら、日本でどのように実践できるかを模索してきました。文化の違いもありますし、日本では3年生の後半から就職活動が始まるといったシステムの違いもある。そうした環境の中で、いかにケンブリッジの源流に近い形を実践できるか。それは常に問われていることです。
一番大きな違いは「伝統」だと感じています。100年単位で積み重なった歴史から生まれる一貫性のようなものが、ケンブリッジにはある。SHIMOKITA COLLEGEはようやく6年目を迎えたところで、歴史の厚みをひしひしと感じながら、今日のお話を聞いていました。
運営する側も「学ぶ側」でなければならない
【篠田】飯田先生、今の原田さんのお話を聞かれていかがですか。
【飯田】ケンブリッジには恵まれた点がたくさんあって、学生も教員も優秀だったりするわけですが、実は何より大変なのは、運営チームを機能させることなんですよね。
学生は「学ぶつもり」で来ているからいい。でも、教えている人、運営している人自身の学びにもなっていないと学びは回っていかないんです。
企業で「学びの文化を作りたい」という話もよく聞くのですが、プロフェッショナルとして働いている人も、本来は学び続けなければいけない。でもどうしても、サービスを提供する側で終わってしまいがちです。運営する人が学ばなければ、そこにいる人たちも学び続けることはなかなかできない。ケンブリッジはその点にとても気を遣っています。
【篠田】「学びが回る」というお話は、言葉としては理解できるのですが、経験したことがないとイメージしにくい。経験のない私たちにも伝わるように、もう少し具体的に話していただけますか。
【飯田】「学びが回る」とは何かから入ると、かえってわかりにくくなるので、逆に「学びがどこで止まるか」を考えるほうがイメージしやすいと思います。
私は毎年、だいたい10人ほどの学生を担当しているんですが、10人いると必ず、4年間のどこかで誰かの学びが止まるんです。障害はさまざまです。恋愛のこともあれば、これまでとはまったく異なる考え方が求められる場面に出会ってつまずくこともある。たとえば理系の学生が文系的な思考を必要とする科目に直面して、急に壁にぶつかるといったケースです。ケンブリッジはエリートが集まる場所なので、それまでほとんど失敗を経験してこなかった学生が、ちょっとしたきっかけで挫折してしまうことがあるのです。
健康問題、不眠、経済的な悩み、友人関係、恋愛...本当に人それぞれ、どこかにぶつかります。教員は、それら全てを「学びの障害」として捉え、対処しなければならない。私一人では対応できないので、男性だけでなく女性のスーパーバイザーを必ずチームに加えたり、看護師や医師に相談できる体制を整えたり。
そしてケンブリッジで特徴的なのは、牧師さんが必ずチームにいることです。精神的に不調をきたしたり、人間関係がうまくいかなくなったりした時に、最後はコミュニケーションでどう支えるか。本当に手間がかかります。本にはその全てを書き切れなかったんですが、実際にはそういうことが裏側で起きているのです。
「蓋をされた可能性」が開く瞬間
【原田】飯田先生のお話を踏まえると、私たちは「コミュニケーションの中で可能性が引き出される瞬間」と「可能性に蓋がされる瞬間」があると捉えています。
たとえば高校生が親元で暮らしていると、「学校に行くのが当たり前」「親が勧める進路を目指すのが当たり前」という前提の中にいます。それが、親元を離れてSHIMOKITA COLLEGEに入ると、身近にいる人たちの属性が一気に変わる。大学生や社会人という、親でも同世代の友人でもない「斜めの関係にある存在」が現れる。
そういう人たちは、その学生の人生の前提を知らないがゆえに、無邪気に「それって自分で決めつけているだけじゃない?」「自分の限界を自分で決めているだけじゃない?」と声をかけてくれる。そこで、それまで蓋をされていたものがあふれ出してくることがある。
日常的なコミュニケーションによって、自分の可能性がどんどん広がって、チャレンジへとつながっていくんです。
【篠田】具体的に、SHIMOKITA COLLEGEでのエピソードがあれば教えていただけますか。
【原田】私自身の話をすると、私はもともと陸上・駅伝を10年間続けてきました。SHIMOKITA COLLEGEに入って、さまざまな経験を持つ人たちと出会い、話すたびに自分の無知を痛感して、少し気後れしてしまうことがありました。
でも、あるとき食堂で一人の学生が話しかけてくれて、「あなたが運営の中で毎日コツコツ取り組んだり、長い目で人の変化を見続けたりできるのは、もしかしたら駅伝を10年間やってきたことによるものかもしれないね」と言ってくれたんです。その一言で、自分がこれまで積み重ねてきた経験の見え方が一気に変わりました。過去の経験を、新しい文脈の中で「経験し直す」ことができたんです。
それをきっかけに、自分はどういうことができる人間なのか、それを日々の運営にどう生かしていくかを考えるようになりました。
【篠田】教える側・運営する側である原田さん自身が学んでいる、という一例でもありましたね。日本の旧来の文脈では「年上が教え、年下が学ぶ」という枠組みに捉えられがちなところを、とても自然に超えていらっしゃるお話だと感じました。
大学不要論について
【会場からの質問】「『頭が良い人は自習できるし、そうでない人に大学は不要だ』という大学不要論についてどうお考えでしょうか。
【飯田】本来、人間にとって「学ぶ」ことは自然な行為です。放っておいても人は学びますし、特に学ぶのが上手な、いわゆる「頭が良い人」にとって、学位を取るためだけなら大学は不要かもしれません。
しかし、それでも大学という場所が必要な理由は、一人では到達できない「学びの加速」にあります。
コツコツと個人で成長するスピードに対し、大学やSHIMOKITA COLLEGEのようなコミュニティに身を置くことで、桁違いの速度で、かつ全く異なる視点から一気に学びが深まる瞬間がある。これは一人では絶対に不可能です。
単なる「学位を与えるだけの機関」であれば大学不要論も一理ありますが、そこでの対話や環境によって成長がグワーッと加速する。その爆発的な成長の場を作ることこそが、我々大学の教員や、このSHIMOKITA COLLEGEが担っている価値なのだと思います。
「学びにつながるコミュニケーション」とは何か
【篠田】最後にあらためて、「学びにつながるコミュニケーション」とはどういうものか、お二人それぞれからお聞きしたいと思います。
【飯田】私にとってはシンプルに「その人を知る」ということだと思っています。
大学では教員と学生の関係は一対多になりがちで、1年生が入ってきても、学生側は教員に話しかけにくいし、こちらも学生が何を考えているかわからず話せない。その壁をどうやって乗り越えて「その人を知る」か。自分の子供のように知るには、どうすればいいか。
実際、真剣に向き合えば、学生を自分の子供以上に深く知ることができる可能性があります。時間的な制約もあるのでバランスは必要ですが、担当する全ての学生が自分の子供のような存在になっていく。それが、ケンブリッジで行われているコミュニケーションです。
他の大学で教えていた時は、ただたくさんいる学生を採点して卒業させる、という話で終わっていた。それと比べると、全ての学生が自分の子供のようになっていくというのが、本当の「学びにつながるコミュニケーション」だと感じています。
【原田】私は、「経験できる領域を広げる」ということだと思っています。自分が直接体験できることには、どうしても限界があります。でも、コミュニケーションを通してその人の人生に触れ、その人を知ることで、自分が体験してこなかったことを「追体験」できる。それがコミュニケーションを通じた学びの、最も象徴的な側面だと感じています。
よく「社会人は何のためにカレッジに住んでいるんですか」と聞かれます。知識を持った社会人が教え、高校生が教わる、という構図に見えてしまうんです。でも、一人ひとりに固有の体験があります。社会人であれ高校生であれ、それぞれがまったく異なる経験をしている。他者とのコミュニケーションを通じて、自分が当事者として関われる領域を広げていく...それが「コミュニケーションを通じた学び」だと思います。