大陸への深入りを避けた明治政府
明治国家は国策上の対欧米協調路線を進めながら、隣の大国の中国とはできるだけ距離を置こうとした。明治期全体を通して、日本と中国(清王朝)との関係はきわめて希薄であり、限定的なものであった。明治27(1894)年、日清両国は朝鮮半島の支配権をめぐって「伝統の一戦」を交えたものの、それも短期間の局部戦争に止まり、全面的衝突にも泥沼の長期戦にもならなかった。また、義和団の乱の鎮圧に際し、日本が列強諸国とともに中国に派兵したこともあれば、日露戦争では清国領内で戦ったこともあるが、少なくとも日露戦争が終結するまでは、日本は中国大陸において独占的な利権も植民地ももつことはなかった。
総じていえば、明治期の日本は中国に対してそれほど興味をもたなかったし、中国問題への余計な関与や中国大陸への深入りを極力避けていた。いってみれば当時の日本は、目を西欧の世界に向けたまま、文明としての「中華」にも、国家としての清国にも「敬して遠ざける」姿勢を貫いた。まさに「敬遠中国」である。
明治期の日本が成功した原因の1つは確実に、このような対外姿勢にあったのではないかと思う。「敬遠中国」の外交路線を貫いたおかげで、日本は中国との紛争や中国国内の内乱などに巻き込まれることなく国内の富国強兵に専念できたし、力を集中させて最大の脅威であった帝政ロシアとの決戦に備えられた。
このロシアからの脅威に対処するために、明治政府は適切な情勢判断に基づいて戦略プランを練り上げた。朝鮮半島での地盤を固めながら清国を中立化させ、さらに欧米からの協力を取り付けて、機が熟すると一気に立ち上がり、当時、世界最強といわれたロシア軍に向かって快進撃し、完膚なきまでに大敗させたのだ。
考えてみれば、明治38(1905)年の日露戦争の勝利をもたらした明治政府の見事な戦略の背後にあるのは、まさに「脱亜入欧」の大局観であるが、この大局観をなす重要なポイントの一つはすなわち、明治期の日本が貫いた「敬遠中国」の考え方であることを強調しておきたい。日本という国は、中国大陸と距離を置いた時代に輝くのである。
日露戦争後の国是の大転換
近代日本最大のジャーナリストといわれる徳富蘇峰は、日露戦争後の日本が「没国是」の状態に陥ったと評した。明治政府の掲げた「文明開化・富国強兵」の国是が見事に果たされたため、国是を見失ったというのだ。
しかし国家というものは「国是」をもたなければやっていけない。したがって日露戦争の終結後、日本は新しい国家的目標、すなわち新しい国是を模索しなければならないことになった。この模索は結局、明治初期の「脱亜入欧」の基調精神とは逆の方向へと日本を導いた。すなわち、「脱亜」から「アジアへの回帰」へ、そして「入欧」から「欧米との対抗」へという方向性の大転換である。
日本近代思想研究家の岡義武氏の説によれば、日本の近代政治思想史のたどった軌跡は要するに、「脱亜」のあとに「アジア回帰」が訪れ、太平洋戦争においてその頂点に達する、というものである(「国民的独立と国家理性」『近代日本思想史講座・第8巻』〔筑摩書房〕に収録)。
つまり、明治期の「脱亜入欧」のあと、それに取って代わって「アジア回帰」の志向が台頭し、やがて大正以後の近代日本の国家的イデオロギーとして氾濫し、太平洋戦争(すなわち大東亜戦争)においてそのクライマックスを迎えた、ということだ。
「アジア回帰」の志向は思想的にいえば、すなわち「アジア主義」である。この源流となる主張は、明治中期の「大東合邦論」や岡倉天心の「アジアは一つ」にまで遡ることができるが、大正期の「アジア・モンロー主義」から「大亜細亜主義」、昭和初期の「東亜同盟論」から「東亜共同体論」までさまざまなかたちをとりながら、アジア主義は大正以後の近代日本において中心的なイデオロギーの位置を占めてきた。その集大成となるのは太平洋戦争のさなかに喧伝された「大東亜共栄圏」である。
アジア主義とは何か。『世界大百科事典』(平凡社)の解釈によれば、それは「中国などアジア諸国と連帯して西洋列強の圧力に対抗し、その抑圧からアジアを解放しようとする主張である」という。
要は、「アジアとの連帯」と「西欧への対抗」の2つを組み合わせれば「アジア主義」となるのだが、考えてみれば、それはまさに明治日本の「脱亜入欧」とは正反対の考え方だ。明治が終わってから昭和初期にかけて、日本は国家の基本方針に関する百八十度の大転換を行なったのである。