1. PHPオンライン
  2. 社会
  3. 「敬遠中国」で再び日本は輝く〔2〕

社会

「敬遠中国」で再び日本は輝く〔2〕

石平(評論家/拓殖大学客員教授)

2013年11月15日 公開 2023年01月11日 更新

大川周明がもたらした歴史的後退

 満洲に対する日本の執念深さの背後にあったのはやはり、「中国との連携」を吹聴するアジア主義の考え方であった。満洲事変の発動と拡大において決定的な役割を果たした石原莞爾と、満洲事変の「戦後処理」において欧米との対決姿勢を誰よりも鮮明にした松岡洋右の両者は、アジア主義の系譜に連なるバリバリの「日中連携派」であることは前述のとおりだ。

 皮肉なことに、「中国と連携しなければならない」という彼らアジア主義者の信念から始まった一連の行動は結局、日本と中国との全面戦争の勃発を招き、中国との全面戦争はまた、東南アジア諸国の多くを戦火に巻き込んだ太平洋戦争勃起のきっかけをつくった。「中国との連携、アジアとの連携」を訴えるアジア主義とは、いったい何だったのか。

 このアジア主義の思想運動がその頂点に達したのは、太平洋戦争の最中に提唱された「大東亜共栄圏論」である。

 ここでは、「大東亜戦争のイデオローグ」と呼ばれた大川周明の出番となる。民間の知識人として唯一、元首相の東條英機などの国家指導者たちと肩を並べて東京裁判の法廷に立たされたことからも、戦前の日本における大川の影響力の大きさが窺える。昭和18(1943)年に『大東亜秩序建設』を出版した大川はそのなかで、大東亜共栄圏の範囲を示し、「大東亜秩序」の歴史的理論的根拠をも提示した。彼の考える大東亜秩序の中核となるのは日本と、日本と一体化した中国・満洲である。

 そして彼は、この秩序実現のための根本条件として、東亜諸民族が日本と提携・協力し、米・英・仏・蘭の白人勢力を東亜より駆逐することであるとも強調している。「アジアとの提携」と「欧米との対抗」というアジア主義の伝統的なキーワードの2つは、大川の「大東亜共栄圏論」において完全に受け継がれている。

 大川はさらに、「大東亜秩序」の歴史的根拠として、唐の時代から東亜地域にはすでに「東亜共栄圏」というものが存在していて、中国の儒学はローマ法王のごとく東亜全域の精神界を支配していた、と論じている。現在の日本こそ大東亜新秩序の中心であるが、その理由として「支那精神と印度精神を総合」した日本精神は、「大東亜秩序の基礎たるべき新東洋精神の根底また中心たるべきものである」としている。

 このようにして、大川の大東亜秩序において「脱亜入欧」という明治日本の文明志向が完全に放棄され、精神と思想の面においての「アジア回帰」が完成するが、そのうえで彼はさらに、中国の唐王朝や儒学を持ち出して、それを中心とする中華秩序の亡霊を蘇らせ、「大東亜共栄圏」のモデルケースとしたのだ。

 聖徳太子が中華王朝と中国文明からの自立を宣言して千数百年、大川周明の高論卓説において、日本と中国は実体と精神の両面において再び一体化されようとしている。それはまさに、時代に逆行した歴史的後退であろう。

 しかし、彼がこのような高論卓説を吹聴しているそのとき、満洲事変から始まる「十五年戦争」はすでに最終段階に突入していた。日本は白人国家・アメリカとの死闘を繰り広げながら、本来なら「提携すべき」中国とも戦っていた。数年後、大日本帝国自体の敗戦と破滅とともに、「大東亜共栄圏建設」の夢も露のごとく消え去り、日本という国は有史以来の大敗戦を喫して、初めて外国占領軍の支配下に置かれるようになった。

 考えてみれば、明治日本の興隆をもたらしたのは「脱亜入欧」の文明志向と戦略思想であったが、大正期から昭和初期にかけて、日本人はこのような賢明な国策をあっさりと捨てて、それと正反対のアジア主義の幻想に飛びついた。この幻想に基づいた「中国との連携」の妄想に囚われて中国大陸への関与と進出を一直線に進めたことこそが、近代日本の破局を招いた最大の原因ではないだろうか。

 中国に近づけば災いが来るという古来の法則は、日本史上最大の失敗をもって、もう一度証明されたのである。

次のページ
高度経済成長と中国市場は関係ない

著者紹介

石 平(せき・へい)

評論家

1962年、中国四川省生まれ。北京大学哲学部卒。1988年来日、神戸大学大学院文化学研究科博士課程修了。民間研究機関を経て、評論活動に入る。著書『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(PHP新書)が第23回山本七平賞を受賞。

関連記事

アクセスランキングRanking