[甦る戦争の記憶]硫黄島戦没者慰霊式を訪ねて〔2〕
2014年05月19日 公開 2023年01月12日 更新
レーションの味
式典のあと、実際に硫黄島で戦った元米国兵の2人と話すことができた。ジェシー・ファーマー氏は米兵が上陸した1日目に海岸で被弾し、摺鉢山頂上の米国旗掲揚を医療船から見ていたという。
「摺鉢山は2日目だったな。でもあれで戦いが終わったわけではない。まだ島全体は全然抑えていなかった。私は1日目に右腕に被弾してしまってね。傷自体は大したことはなかったのだが、血が体全体を覆う状態になってしまい、周りのほうが焦っていたよ」
その後、ファーマー氏は戦闘に参加することはなかった。
「いまにして思えば、あれだけの激戦で右腕の小さなけがだけで済んだのだから、幸運だったよ。まして、この傷のおかげでその後の戦闘に参加する必要もなかったのだから……」
もう1人、ロバート・ヘンスリー氏とはさらに突っ込んで話すことができた。「みんな、オレのことをボブと呼んでいるから、そうしてくれ」と語る氏は、硫黄島に来る前はヒューストンで訓練を受け、その後ホノルルに派遣され、グアム経由で硫黄島に攻め入ったという。
「あなたは摺鉢山の星条旗をどの地点で見ましたか?」
「オレたちゃ、レッドビーチ(東海岸の一部)に錨を下ろして、マシンガンなどをトラック2台に詰め込んでいた朝にあの星条旗を見たわけさ。2日目の朝だったな。本来なら海兵隊第28連隊があの摺鉢山占領を担当していたはずなのだが、われわれはすでに兵士の40%を失っていた。オレはその前日までグアムにいたのだが、戦後、グアムを日本から奪回した部隊出身だということで政府からメダルをもらい、硫黄島でも新しいメダルをもらった。ありがたいことだよ」
ボブはテキサス訛りで語る。
「日本兵の手記に、『米軍の食糧を盗んで食べてみたら、結構美味かった』という記述がありました。実際のところあなた方はこの島で何を食べていたのですか?」
そう尋ねると、「オレたちがここで食っていた軍用食料はクソまずかったよ」。
ボブは私の「ヤミー(おいしい)」という言葉が信じられない、と強調するかのように目を丸くした。
「そもそも、上陸後の21日間はまともな補給もなかったしな。しかも、日本兵が夜襲ばかり仕掛けてくるからまともに寝られなかったんだよ。ただ、CB(建設工兵隊)といって、海軍で道路や滑走路の建設に携わっていた連中はいいものを食っていた。たまに会うと、いいものを食わせてくれるんだ。船で海軍の食事にありつくのもいつも楽しみだったよ。たぶん、あんたがいっているのは海軍のメシではないかね? オレたち海兵隊の食事がうまいなんてとんでもない話だぜ」
そういってボブは笑い飛ばした。
余談だが、米軍のなかでも海軍と海兵隊は非常に相性がよい。ボブも「食料を分かち合った」と証言したように、普段から合同で訓練、作戦行動を行なう両者の親密さがうかがえる。反対に、海兵隊と空軍は仲が悪い。私の体験でも、沖縄の海兵隊の面々に少しでも嘉手納の空軍の話を聞こうとすると、露骨に嫌な顔をされ、気まずい雰囲気になる。人員の交流も聞いたことがない。この件については、米軍と密に接した経験をもつ人物によるこんな証言もある。
「今1つ予想されたのは、現在嘉手納基地を使用中の米空軍が、普天間を使っている海兵隊との同居を認めるのかどうか、という問題だった。私は、それまで米軍関係者と話すたびに、同じ軍でも空軍と海兵隊、海軍、陸軍の考え方がいかに違うのかを思い知らされていたからだ。(中略)こうした違いがある以上、私は、空軍と海兵隊の同居は簡単には進まないのではないか、と予測していた。事実、後になって、空軍が海兵隊の嘉手納基地への移転に難色を示した、と聞かされた」(大田昌秀『沖縄の決断』pp.210-211より)
ちなみにレーションについては同行していた「Daughters of WWⅡ」のメレディス・ウォーカー氏が詳しく解説してくれた。
「前線の兵士に配給されていたKレーションには、缶詰の肉、ビスケット、緊急用のチョコレートバー、タバコが4パック、そしてブイヨンのキューブが1つの箱のなかに詰められていました。少なくとも、私が話したことがあるヴェテランは全員口をそろえて『Kレーションの味は最悪で、量も満足のいくものではなかった』といっていました。ただし、Kレーションはあくまでも前線の兵士用であり、決して全員がそれしか食べていなかったということはありません」
「もう一度やってもいい」
それから、ボブは問わず語りを始める。
「3カ月前か、6カ月前だったかな――巨大なスーパーマーケットでオレを見つけた若い男が聞いてきたよ。『もし同じ事を繰り返さなければならないとしたら、やりますか?』とな。すぐに答えたよ。『当然だ。即刻やってやるぜ』。悪い思い出はきりがないが、ここにはいい思い出もあるんだ」
なぜあの悲惨な戦いが「いい思い出」で、「もう一度やってもいい」と言い切れるのか?
「オレたちがトラックに荷物を積んでいたときのことだ。作業が終わったので、何かできることはないかと上官に聞いてみたんだ。そしたら、遠くにあった担架を指さし、『あれで飛行場にいるけが人、あるいは誰かの遺体の一部を運んでこい。そしたら、エンジニアたちがすぐに飛行場の復旧作業に入れるだろ』といわれたんだ。
それまでアメリカ軍が東京を空爆したときには、敵の銃弾を受けたパイロットは帰りの途中に海へ墜落する者が少なくなかった。でも、やがてそうしたパイロットがここの滑走路に降り立つようになったんだ。わかるかい? そのとき、なぜわれわれがここに派遣されたのか、戦う必要があったのか心から納得できたんだ。ここを押さえてなければ、少なくない数のパイロットが海中に消えていたはずだ。オレたちは、たしかに有意義な実績を残したんだよ」
硫黄島の戦いは、当時ほぼリアルタイムで米国本土に伝えられていた。本土では摺鉢山の国旗掲揚が勝利の印とされていたが、あれはあくまでも戦闘の序盤における一場面にすぎない。今回の帰還兵が全員口をそろえて証言したのは「空港にパイロットが降り立ったときの感動」である。まさにこれこそがアメリカにとって、硫黄島の戦いの歴史的意義なのである。
「日本人に敬意を抱いている」
「敵としての日本兵にはどのような印象をもっていましたか?」
私は尋ねた。
「とにかくいつも、夜になると潜んでいた洞穴から出てきて襲われたという印象がある。われわれ兵卒(Privates)は滑走路の片側にテントをつくって野営するわけだが、日本兵は反対側の洞穴から出てきて、われわれのパイロットに甚大な被害を出した。手ごわい相手だったよ。もちろん、あちらは敵だったし、われわれもあちらにとっては敵だったから、お互いに殺し合ったのはやむをえないことだ。
だが、そんな2国もいまや友人となり、今日のような式典を合同で行なっている。これぞあるべき姿ではないかね? 世界にはわれわれに対して友好的ではない国々がいくらでもある。そんななか、君たち日本人はアメリカにとっていちばん信頼できる友人だと思っているよ」
「そういえば、日本に行かれたことはないのですか?」
「ないんだよ。じつは、今回の式典の際には東京経由で来るはずだったのだが、急きょ予定が変わってしまった。残念だよ」
それを聞いて、私も心から残念に思った。今回のヴェテランは「若くて」80代後半、平均年齢90歳以上である。これが最後の長旅となるかもしれない。アメリカ本土からの距離は、グアム経由でも東京経由でも大して変わるまい。それなら、現在の東京を見せてあげたほうがいいのではないか。もし主催者がこの記事を読むことがあれば、ぜひ来年以降、この点を検討いただきたいものである。
「私は、今日出会った君たち日本人に敬意を抱いている。君がここにいたわけではないし、君があの戦いを始めたわけではないからな」
「私は生まれてすらいなかった……」
「そのとおりだな。生まれてすらいなかった。もっとも、私はここにいたが、私が戦争を始めたわけでもない。ただ、指令のとおりにしただけだ。われわれ全員がそうだったのだ」
最後にボブは、私に向かってこう語りかけた。
「たぶん、君たちとはもう二度と会うことはないだろう。でも、本当に会えて楽しかったよ」
私は何もいわず、右手を差し出して彼と固く握手をした。そして島に上陸して以来、初めて笑顔になることができた。
〈写真:海兵隊退役軍人のロバート・ヘンスリー氏、Daughters of WWII のメレディス・ウォーカー氏と筆者〉
<掲載誌紹介>
<読みどころ>今月号の総力特集は、「しのびよる中国・台湾、韓国の運命」と題し、中国の脅威を論じた。武貞秀士氏は、中韓による「反日・歴史共闘路線」で中国が朝鮮半島を呑み込もうとしていると警鐘を鳴らす。一方、宮崎正弘氏は、台湾の学生運動の意義を説き、中国経済の悪化でサービス貿易協定の妙味は薄れたという。また、上念司氏と倉山満氏は、中国の地方都市で不動産の値崩れが始まっており、経済崩壊が目前で、日本は干渉しないことが最善の策だと進言する。李登輝元台湾総統の特別寄稿『日台の絆は永遠に』も掲載。ぜひご一読いただきたい。
第二特集は、日清戦争から120年、日露戦争から110年という節目の今年に、「甦る戦争の記憶」との企画を組んだ。また、硫黄島での日米合同の戦没者慰霊式に弊誌が招待され、取材を許された。遺骨収集の現状を含め、報告したい。
さらに、世界的に著名なフランスの経済学者ジャック・アタリ氏とベストセラー『帝国以後』の作者エマニュエル・トッド氏へのインタビューが実現。単なる「右」「左」の思想分類ではおさまらない両者のオピニオンに、世界情勢を読む鋭い視点を感じる。一読をお薦めしたいインタビューである。