人間を高め育てる「ひとり」の哲学
「主座を保つ」というのは、私が提唱する「ひとり」の哲学にも共通する精神です。近ごろは、絆という言葉にみられるように、複数の人間とのつながりばかりが重視されています。しかし、日本人は万葉の昔から「ひとり」の時間を味わいながら、思索を深めてきました。
「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む」という柿本人麻呂の歌は、一人で夜を過ごしながら、恋人への思いを募らせる心情を表しています。一人でいるからこそ、他人への思いが深まるのです。
また鎌倉時代の仏教書『歎異抄』には、阿弥陀如来が長い年月思案して立てた誓いは「ひとえに親鸞一人がためなりけり」と書かれています。
阿弥陀如来の救済力は万人に注がれる、というのが一般的な認識です。そしてもちろん親鸞も、そのように説いています。
しかしそれは客観的な表現であり、主観的には、阿弥陀如来の救済力が自分だけに注がれていると自覚する。つまり「一対一」の関係になっている。親鸞は自分を主座に置いて、ものを考えていたといえるでしょう。
また福澤諭吉は、『学問のすゝめ』で「一身独立して一国独立す」と書いています。一個人が自立することによって、初めて国家が確立するという意味です。ここでいう独立、つまり「独り立ち」は、国民一人ひとりが主座を持って立ち上がることだと考えてもいいでしょう。
これまで見てきた「主座」あるいは「ひとり」という伝統的な考え方は、西洋の「個の自立」とは意味合いが異なります。
西洋社会の根底にあるのは「疑う」思想です。フランスの大哲学者であるデカルトの言葉「われ思う、ゆえにわれあり」は、つまり「われ疑う、ゆえにわれあり」だと考えられます。こうした西洋の「疑う」精神が、数々の科学的な発見を生んだのです。
「疑う」精神は当然、「人間は疑うべき存在である」という人間観にもつながります。そこで考え出されたのが、「絶対神の存在」と「契約の精神」でした。
個人同士ではなく、絶対神と個人という垂直の関係があれば、個人の行動は抑制されます。また弱肉強食の社会であっても、個人間で契約が結ばれれば、そこに安定が生まれるのです。
「疑う」土壌で民族や国家というコミュニティを成立させるためには、どうしてもこの2つの条件が必要でした。しかし日本では、この2つの精神はほとんど根づかなかったといっていいと思います。
こうして、西洋とは正反対の人間観が育まれました。それが「人間は信ずべき存在だ」というものです。
一神教的観念も契約の精神もない文化の環境の中で、「疑うべきもの」という人間観を持ってしまえば、コミュニティは成立しません。
そのため「個人、すなわち一人ひとりの利益は集団の安定性があって初めて生じる」という考え方が、自然に持たれるようになりました。このように、西洋の「個人」と日本の「ひとり」はまったく異なる人間観を前提としているというのが、私の理解です。
絶対神を欠く日本の文化に西洋の個人主義をそのまま持ち込めば、自己中心的なふるまいをする「個人」が生まれるのは当然の結果でしょう。また日本の伝統精神を曲解し、「集団」ばかりを重視してその暴走を許せば、いつか来た道に逆戻りしてしまいます。
どちらに偏ってもいけない。西洋の「個人」と日本の「ひとり」を調和させることが、これからの日本社会には求められています。そうして新たな価値観を創造することこそ、日本の先人たちが成してきたことなのです。