金 美齢 家族を持つ幸せ
2016年04月13日 公開
家族と生涯を過ごせば「最期は独り」ではない
そして、すべてが自分の思うとおりになることはない。諦めではなく、「サムシング・グレート」を感じれば、人生に不足ばかりを感じることもない。夫婦、親子、家族の縁もそうした関係、運命のなかで結ばれていくものだ。そう思えば、なんと貴重な出逢いなのだろうと思う。家族を重荷と考えるか、大切なものと考えるかは、実はこうしたちょっとしたモノの受け止め方で変わってくる。
三浦瑠麗さんという、30代半ばの女性国際政治学者がいる。彼女は「家族は自分にとって人生の錨」だと語る。私はこの言葉に素直に感動した。仕事をしつつ、結婚し、子供をもうけた女性の言葉だ。人生をフルに生きる喜びを、きっと彼女は感じているだろう。
私もこの言葉を少しでも多くの女性に実感してほしいと思う。それは、健康に恵まれた者ならできることなのだ。「個人の自由」とか「家族という病」といった観念の迷路に入り込まず、当たり前に人生を見つめればいいのである。
女性として生まれた人生をフルに生きる。その可能性を自ら閉じることなく、大いに挑んでほしい。私がここに綴ってきたことは、すべてその応援のためだ。
私はこれから先、何年生きられるかわからない。けれども、女性として生まれた人生を自分なりにフルに生きてきたつもりだ。結婚し、子供を授かり、家族を持って、いま過ごしている。夫には先立たれたが、娘がいて、息子がいて、孫がいて、友がいる。私は、何ものにも代え難い安心感のなかにいる。
「最期」は独りなのは、わかっている。私は、個人としても自立した人生を送ってきたという自負があるが、家族を持ったことがそれに矛盾すると感じたことは一度もない。
臨終が突然やってきて、そのときは独りかもしれない。けれども、それは外形的に独りなのであって、内面的には独りではない。なぜなら、人生の一幕、二幕、三幕……と過ごしてきて、終幕に至るまで私には家族がいたからだ。「家族という病」を語る人がいてもいい。でも、「家族を持つ幸せ」を嚙み締め、それを語る私がいてもいいだろう。
選択は、人それぞれだ。私は家族を持つ選択をした。それは私の覚悟だったし、誰かに押しつけるものでもない。ただ、これだけは繰り返し言っておきたい。
家族をつくらずに生涯を過ごして「おひとりさま」で死ぬとしても、その看取りをしてくれるのは、自分以外の誰かが産み育ててくれた子供なのだ。やがて誰もいなくなった……という未来を描くのか、そうでない未来のために自分の人生を使うのか。
私は、死の瞬間まで後者でありたい。