金 美齢 家族を持つ幸せ
2016年04月13日 公開
家庭ほど安らぐ場所はなく、夫婦ほど支え合える関係はない
50万部超のベストセラー『家族という病』の著者・下重暁子氏は同書で、「親や家族の期待は子供をスポイルしている」「配偶者は他人」などと家族の価値を否定し、自立した個人の重要性を強調。また80万部のベストセラー『おひとりさまの老後』の著者・上野千鶴子氏は、「ひとり暮らしは、さみしいだろうか?」「ようこそ、シングルライフへ」などと綴る。
これらの言説に対して<下重暁子さん、上野千鶴子さん、あなたたちの「歪んだ家族論」に私は反論させてもらいます!!>と声を上げたのは、本書の著者・金美齢氏だ。金氏は、「メディアや学界などで仕事をしている関係から公的な立場を与えられた彼女たちが、ちゃんと結婚をし、子供をなし、家族という共同体を営み、社会を支えている人たちの生き方を批判する。これを傲岸不遜と言わずして、なんと言おう」と憤る。
「『おひとりさま』の貴方を看取るのは誰?」と問う著者が改めて説く「家族の価値」とは?
(以下、金美齢著『家族という名のクスリ』より一部抜粋)
“お節介”を重ねることで人間は存続してきた
私は、家族の解体をめざすような言説には制約がなく、家族の価値を守ろうとする言説には奇妙な枷がかけられていることを、少しでも多くの人に気づいてほしいと思う。そして、それを外していくことを躊躇わないでほしい。
結婚しないの?
子供はつくらないの?
親と同居はしないの?
これらの言葉を禁句としてはいけない。いずれも個人の自由を阻害するという批判はある。けれども、そうした“お節介”を重ねることで人間は存続してきたのである。しかも、このお節介は一方的なものではない。「お互いさま」を前提にしているのだ。
私もこれまで「自分の人生は自分で決める」ということを言ってきた。しかし同時に、そこには自分だけではどうにもならない、「サムシング・グレート」があるとも。
人が生きるということは、運命や他人との関わりや、様々な不確定な要素のなかで年齢を重ねていくことだ。そのとき「お互いさま」という感覚があれば、誰かを一方的に恨んだり憎んだりすることもない。自分だけが損しているという被害者感情に囚われることもない。
結婚しないの?
子供はつくらないの?
親と同居はしないの?
──と声をかけてくれるのは、あなたのことを共同体の仲間として気にかけてくれているからだ。迷惑だと思うのなら、周囲がみなあなたに無関心でいることのほうを望むのか。
もちろん、こんな二分法はすべきではなく、「お互いさま」で「ほどほど」がよい。
それを長い歴史のなかで日本人は「常識」としてきたのではなかったか。「セクハラ」「パワハラ」「マタハラ」というのは、また「家族という病」というのは、みな常識の力の衰退がもたらしたものだと思う。
金沢で某雑誌の女性編集長と一緒に仕事をしたときのこと。その出版社の重役を交えての会食となった。
重役氏が、女性編集長が独身であることを心配して、「彼女に誰かいいヒト、いませんか?」と私に尋ねてきた。私は「素敵な女性だから、必ず出逢いがあります」と答えたのだが、これは彼女に対するセクハラだろうか。重役氏はお節介かもしれないが、けっして彼女にセクハラをしたのではないというのが私の解釈だ。彼女もニコニコして聞いていた。おおらかで、度量のある女性なのだ。
私が周英明と結婚したとき、周は私に何と言ったか。
「ボクは社会的な救済をした」
売れ残りになりそうな女を救ってやったと言わんばかりの顔つきだった。しかし私はそれを笑って、「なに言ってんの」と受け流した。「お互いさま」なのである。周もまた、私でなければ妻は務まらなかったろう。こんな話をなぜ披露するかといえば、過剰反応して相手を攻撃するような心持ちではなく、もっと余裕を持った広い心持ちでいるほうがどれほど楽かということである。
お互いに心遣いはしても偽ったりはしない。過剰に期待もせず、さりとて無関心ではないのだ。