かつての肩書きに執着するな~恰好いい老い方、みっともない老い方
2016年05月16日 公開 2022年11月10日 更新
『恰好いい老い方、みっともない老い方』より
仕事があれば死ぬまで続けろ
退職後に月に3~5万円でも自分の自由になるお金を確保するために、なにか仕事ができたら一番いい。実際に、多くの高齢者が「体が動くうちは働きたい」と考えている。政府が発表している「高齢社会白書」によれば、団塊世代に「何歳まで働きたいか?」という質問をぶつけたところ、「働けるうちはいつまでも」が最多の25.1パーセントを占めた。4人に1人は働きたいと思っている。私自身も『男は死ぬまで働きなさい』(廣済堂文庫)という本を出したくらいだ。
一方で「働きたいとは思わない」という回答も20.6パーセントあったが、これはまだ、ヒマな生活に飽き飽きしていないから言えることではないかと思う。実際に「毎日が日曜日」になってみると、アルバイトの1つもしてみたくなるものだ。
こうした需要に対し、「高齢者に仕事を提供したい」という市場もある。にもかかわらず、多くの高齢者が「働きたいが仕事がない」と不満を抱いている。需要と供給のミスマッチが起きているのだ。
定年退職後の仕事については発想転換が必要だが、なかなかそれができない。たいていの人が「これまでの経験を生かしたい」と考える。だから、自分がやってきた仕事の延長線上で「なにかないか」と探している。しかし、営業や経理などの職種は求人数に対する求職者が多く、倍率も10倍近くと高い。
一方で、清掃などでは比較的職が得やすくなっている。ところが「長年、有名企業で働いてきた俺がなんでビルの掃除をしなきゃならないんだ」という意識から敬遠するケースが多いのだ。現役時代のプライドが許さないのだろう。
私は、定年退職後の仕事は過去のプライドを捨ててまったく新しい分野に求めたほうがいいと思っている。
知人の男性が、65歳で定年を迎えた。建築資材メーカーで営業部長まで務めたが、役員には残れなかった。まだ働きたかった男性は、社内の制度を利用して再雇用してもらった。しかし、給料はそれまでの3割ほどに激減した。
なによりもつらいのは、かつて部下だった人間の下で働かされることだった。一応「さん」付けで呼んでくれたが、重要な仕事は1つも回してくれない。会議にも出席を許されない。いかにも「お荷物」という扱いをされたという。現役時代とまったく違ったのだ。
企業はシビアだ。なんと言ったって現役が偉いのだ。昨日までの肩書きは、今日にはまったく意味を持たない。それが現実なのだ。
長く働いてきた会社で、人生の最後にそんな屈辱的な思いをする必要はない。それくらいならまったく違った会社で、思い切って環境を変えてビルの掃除もいいではないか。体を動かすだけ健康にもいいだろう。
以前は、高速道路の料金徴収は、退職した高齢者の仕事だった。しかし、ETCの導入でそうした仕事も減ってしまった。
また工事現場の交通整理やマンションの管理人もいい仕事だが、空きはなかなか見つからない。さらにコンビニなどのアルバイトも、多くが外国人労働者などに取られてしまっている。
だから、定年後に働くにはこれまでの常識とは違うところで仕事を見つけなければならない。
厚生労働省が公表している「一般職業紹介状況」によれば、60歳以上の有効求人倍率は、ここ数年で大幅に改善している。仕事が「ない」わけではないのだ。事務的なきれいな職種に希望者が殺到しているだけである。泥まみれの清掃の仕事などを敬遠するのだ。
あなたは、なんのために「まだ働こう」と思っているのだろうか。残りの人生を楽しむためのお金を得るためではないのか。あるいは、「家に閉じこもっているよりは働いていたほうが健康にいい」というのもあるだろう。
少なくとも、「部長という肩書きを得て、ちやほやされたい」などというバカげた理由ではないはずだ。
作家の五木寛之さんは、「日刊ゲンダイ」の連載の中で、老人が「老害」として嫌がられる世の中を「嫌老社会」と呼んだ。そして、そういう風潮に対抗していくためには「賢老社会」を目指すべきだと述べている。
長く生きてきた老人たちは本来、若者より賢いはずなのだから、その経験を生かして働き、社会に貢献することで尊敬される存在になるべきだと五木さんは提案している。
私も理想論としては異存はないが、大事なところを読み間違えないでほしいとも思う。
「これまでの経験を生かす」に固執すれば、現実的に仕事は見つからない。理想と現実とは違うのだ。
もし見つかったとしても、そこで得られる収入は、かつてのものとは次元が違う。フルタイムで働いても月に20万円にも満たないケースがほとんどだ。だから、これまでの延長線上に考えていたらダメなのである。
私は、「経験」とは同じことを積み重ねることではないと思っている。肩の力を抜いて新しいことをやってみたり、若い人たちに教えを請うことができるのも、人生経験があればこそではないだろうか。