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飛騨高山に、世界も驚くパン屋が生まれた日

成瀬正 (TRAIN BLEUオーナーシェフ)

2016年08月10日 公開 2016年08月15日 更新

 

店はできていないけれど、お得意様はすでにいる

高山に戻ってから1989年にトラン・ブルーの店舗をオープンするまでの3年間は、貴重な準備期間となりました。パン職人の本来の仕事以外にも、「今、何をすべきか」を常に考えていました。開店資金も貯めなくてはいけません。そこで、飲食店を回るだけでなく、一般の家庭向けにパンを届ける宅配業を始めることにしました。広くトラン・ブルーのパンを知っていただくためです。「地域にトラン・ブルーのパンのファンがいれば、開店したとき、必ず来てくださるだろう」と。3年後の開店を視野に入れての事業でした。

大手メーカーが「耳までやわらかい」を打ち出したロングセラー商品を発売したころのことです。私も材料にこだわってふんわりした新しい食感の食パンを作り、「パンオブール」と名づけました。ブールはフランス語でバターの意味です。

このパンを知ってもらおうと、PRのチラシを新聞の折り込み広告に入れました。黒を基調としたリッチなイメージのデザインで、安っぽさが出ないようにし、そのチラシの裏面は、折りたたむと封筒の形になって投函してもらえるアンケートにしました。

「1週間に何度パンを食べますか?」との質問に、「3回以上」と回答したお宅が500件も。予想より多い数字でした。

週に3回以上もパンを食べる方は、基本的にパン好きです。トラン・ブルーのパンもきっと気に入ってくださるはずだと考え、「3回以上」と回答したお宅に無料で、1袋ずつパンを届けたのです。すると、契約が取れるようになりました。

パンを無料で配布したことに驚かれるかもしれませんが、まず食べていただくことが何より大切でした。「あのときの500件」のうち、今日までお客様になってくださっている方もいる。多いときで1200件ぐらいお客様がいましたから、配達係の人を雇っていました。

商品が売れるためにはまず、いいものを作ること。そうすれば、自信をもって勧められます。少々値段が割高であってもデメリットにはなりません。そして、不特定多数の人にPRするよりも先に、関心をもっていただける方を確実にピックアップしました。

「三食、米の飯でないと嫌だ」という方にパンを買ってもらうことは、ほぼ不可能ですから。

ターゲットが絞られ、対象となる方へ重点的にPRしたことで、商品は「価値のあるもの」として認められました。「トラン・ブルーのパンを食べることができて、うれしい」という人にパンをお届けすることは、かけがえのない喜びです。

こうして、「店はまだできていないけれど、お得意様はすでにいる」という状況をつくりだすことができました。開店までのカウントダウン。確実な成果を求めて、できることを順番にしていきました。店を出すことにワクワクした気持ちはありましたが、若さだけでチャレンジし、突っ走ったわけではありません。

父が経営する工場のかまでパンを焼かせてもらっていましたから、「なるせパン」には加工賃を納めていました。「父の商売の軒先を借りて、ちょっと目新しいことをする」というふうには見られたくなかったのです。店はまだなかったけれど、責任とプライドをもって仕事をしていました。

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待ちに待ったオープン、最初のお客様

著者紹介

成瀬正(なるせ ただし)

TRAIN BLEU オーナーシェフ

1960年、岐阜県高山市生まれ。大正元年創業のパン製造会社の4代目。成城大学経済学部卒業。株式会社アートコーヒー、社団法人日本パン技術研究所、株式会社ホテルオークラ東京を経て、1986年に帰郷し、1989年、飛騨高山に「TRAIN BLEU」をオープン。2005年「クープ・デュ・モンド・ド・ラ・ブーランジュリー」(ベーカリーワールドカップ)では、個人店初となる日本代表に選出され、チームリーダーとして出場、総合第3位に輝く。2012年の同大会では、監督を務めた日本チームが優勝を飾る。著書に『トラン・ブルーが切り拓くパンの可能性』(旭屋出版)がある。

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