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2011年08月27日 公開 2024年12月16日 更新
ここでは、『歴史街道』の誌面に掲載された山本兼一さんのインタビューを再録しました。
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『利休にたずねよ』に込めた思い
千利休 - 堺の魚屋から天下人・信長、秀吉の茶頭を務めた男。
そしておのれの美学を貫き通したがゆえに秀吉に疎まれ、腹を切らされた男。
利休好みの水指を見て、着想のヒントを得たという山本氏に、今回の作品誕生の舞台裏、
歴史小説を書く醍醐味について語っていただいた。
なぜ利休だったのか
- 直木賞受賞、おめでとうございます。ご著書『利休にたずねよ』では、利休が恋する人間として艶やかに、また秀吉との相剋が苛烈に描かれており、衝撃を受けました。なぜ利休を書こうと思われたのか、まずはそこからお聞かせください。
山本 私は利休と縁が深い京都・大徳寺の近くに住んでいたので、子供の頃から利休は気になる存在でした。長じてから利休好みの水指(みずさし)を見て、匂い立つほどの優美さを感じ、侘びび寂び=枯れた世界との解釈に疑問を感じたんです。この水指が醸し出す艶やかさの根源には何があるのだろう、もしかしたら利休は恋ごころの強い、エネルギッシュな人だったのではないか...そんな思いを抱き、書いてみたくなりました。
- 連載をスタートするにあたって何をなさいましたか?
山本 お茶を習いに行きました(笑)。大徳寺の塔頭(たっちゅう)で行なわれているお茶の稽古会に参加し、一から教えていただきました。
一番驚いたのは、畳の目を数えて座り、道具を持ったり置いたりすることです。最初は、そんなことどうでもいいじゃないか、と思っていたのですが、改めて茶室や道具を見てみると、悔しいけれど、先生のおっしゃるようにするのが一番美しい。黄金比率を知り尽くした上で、決められた法則を大事にする世界なんですね。
- お茶を習う以外には、どんなことを?
山本 利休好みと言われる茶碗を観に行ったり、お茶事を体験してみたり。熱海のMOA美術館に再現されている黄金の茶室も見に行き、実際に茶室のなかに入れてもらい、秀吉の企みをあれこれ想像して小説に生かしました。
同じ題材をどう書くか
- 歴史小説は時系列を迫って書いたものがほとんどですが、『利休にたずねよ』はいきなり京都・利休屋敷での切腹シーンから始まります。
山本 利休が秀吉に腹を切らされたことは誰もが知っています。ですから時系列を追って物語を進めても、面白くない。そこで時代をさかのぼって、利休の美学の根源は何かを探っていき、最後に答えが出るような構成にしました。
ただこの構成にすると、逃げ道がないんです。たとえば最初に「笑わない女だった」と書くと、あとで変えることはできない。ですから緊張の連続でした。
- 一章ごとに違う人物の視点で描かれていますね。
山本 利休は美の巨人で、とても一面的に捉えられる人ではないんです。ですから多視点で描こうと思い、秀吉、弟子の古田織部、後妻・宗恩(そうおん)の目から見た利休といったように章ごとに視点を変えてみました。
- 緊張感がいい意味で文章にも表われており、読み手にも伝わってきます。
山本 『利休にたずねよ』は、書いているうちに浮力がついて走り出した作品です。言葉を紡ぎ出すというより、内からほとばしり出てくるものを手が写し取っている感じがしました。
小説を書くとき、取材や調べた内容に引きずられる場合と、フィクションに走り過ぎる場合とあるのですが、『利休にたずねよ』は、そのバランスがちょうどいい具合に仕上がった作品だと思っています。
- 歴史小説を書くときには史実の縛りがありますが、どうクリアされましたか?
山本 利休の後半生については、茶会記や手紙、同時代の資料を見るとわかります。それらを突き合わせて、利休がいつどこで何をしたかを割り出します。しかし幕末と違って資料が限られており、わからない部分も多いので、かなり自由に書けるんですね。作家が好んで戦国時代を舞台に選ぶ理由には、それもあるでしょう。
利休は空間プロデューサー
- お茶というのは、人の心にどのような影響を与えるものなのでしょう。
山本 狭い空間のなかで、ともにたしなむことにより、人間の心を解きほぐす効果があると思います。戦国武将が茶室外交を繰り広げたのは、狭い茶室なら、心の機微が読み取りやすいからではないでしょうか。
- お茶の稽古を通じて、また原稿を書き進めるにしたがって、利休のイメージはどのように膨らんでいったのでしょう。
山本 利休は美に対する研ぎ澄まされた感性を持っていましたが、楽 長次郎のように何かを自分でつくったわけではありません。じつに器用な人で、茶杓(ちゃしゃく)や花入れなど、自分で手がけたものもありますが、美しいものを見極め、選び、配置する天才でした。茶室という心地よい空間と人の和を演出するプロデューサーだったのです。
人の心を解きほぐす空間を提供できるということは、人間について知り尽くしていたとも言えるのではないでしょうか。 それと、茶道の精神を示した「和敬清寂」という言葉があります。亭主と客は和み、敬いあい、茶室や茶器は清らかでひっそりとあるべきだという心得を示したものですが、その精神をあみ出したのも利休です。
日本人は、わかっていてもあえて口にしないことが多いですよね。茶の席なら、そこに余情が生まれますので、短い台詞を言わせた後に、心のなかのわだかまりが伝わるような書き方をしてみました。
― 執筆中に発見したことはありますか?
山本 利休を書くということは、日本文化の深層を探る旅をしているということなんですね。私は旅が好きで、大学卒業後、バックパッカーとして海外を旅して以来、いまだ旅をしている気分なのですが、歴史小説を書くようになってから、書くこと=旅という気持ちを抱くようになりました。
私が小学生の頃は、よくドイツの戦車のプラモデルをつくっていました。憧れの対象は海外にあったのです。ところがいま息子を見ていると、戦国時代の鎧・兜に興味を示しています。日本への回帰ですね。時代の流れを感じます。
- 利休と対立した秀吉については、どうお考えですか?
山本 政権を取ってからの秀吉は、独善的で気まぐれでした。そんな秀吉に対して利休は媚びない。ですからしゃくにさわってしょうがなかったのでしょう。とりすました顔でお点前(てまえ)をする利休を見て、秀吉は蔑まれたような気がしたに違いありません。それが悔しくて悔しくて。
- 秀吉が歯噛みする様子が、目に見えるようでした。
山本 利休が死を賜った理由が謎だと言われていますが、私は単に秀吉に嫌われたからだと考えています。秀吉の目には、利休が倣岸不遜(ごうがんふそん)で嫌味な人間に映ったのでしょう。