ブームの兆し「利他思考」 世界的イノベーションは「他人のための行動」から生まれる
2018年08月20日 公開 2018年12月20日 更新
目的意識を高く持つことでイノベーションを成し遂げたマリー・キュリー
マリア・スクウォドフスカはポーランドのワルシャワで生まれた。当時のポーランドはロシアの占領下にあり、教育者だった両親はポーランドの独立を支持したため職を失っていた。
マリアは学業が優秀で、熱心な読書家だったが、ポーランドでは大学への進学は認められなかった。彼女はお金を貯めるため、住み込みの家庭教師の職を得る。
やがて学生による革命組織に参加すると、国を出る必要性を感じ、1891年にパリへ移ってソルボンヌ大学で科学を学んだ。彼女はそこで物理学教授のピエール・キュリーと出会う。二人は1895年に結婚し、彼女は名前をフランス風の「マリー」に改めた。
キュリー夫妻は発見されて間もない放射能の現象を調べ、1898年に新たな化学元素「ポロニウム」の発見を発表する。
これはマリーが故国ポーランドにちなんでつけた名称だった。その年、夫妻は「ラジウム」という新たな元素も発見し、1903 年、二人にノーベル物理学賞が授与された。
しかし、ピエールは1906年に交通事故で命を落としてしまう。マリーは二人で始めた研究を続けて、ソルボンヌ大学初の女性教授となった。
1911年には放射能の研究に対してノーベル化学賞が授与された。マリーはノーベル賞を受賞した初の女性で、二度受賞した最初で唯一の女性であり、さらに異なる科学分野で二つの受賞をした唯一の人物である。
マリーは放射能の理論を展開したが、「放射能」という用語も彼女が考え出したものである。彼女の研究は、放射性同位体の分離や手術におけるX線使用の技術につながった。
第一次世界大戦では救急車へのX線装置の搭載を求め、みずから前線まで救急車を運転したこともあった。X線の使い方を医師たちに教え、国際赤十字では放射線部門のトップに就任した。
当時は放射線の危険性についてはほとんど知られておらず、マリーはラジウムを素手で扱ったためにひどい火傷を負った。
彼女は1934年に再生不良性貧血でこの世を去ったが、これは研究で高エネルギー放射線にさらされたことが原因だった。
マリーは貧しかったが、賞金には目もくれず、恵まれない人々に寄付をしていた。
第一次世界大戦が勃発すると、ノーベル賞の受賞メダルをフランスの戦費のために寄贈しようとしたものの、この申し出は断られている。
有名になっても変わらない誠実さと質素な暮らしぶりが賞賛されたが、ラジウムの発見についても特許の申請を断っている。医学に利益がもたらされることを望んだのだ。
1929年にはアメリカの篤志家から5万ドルが贈られたが、ワルシャワ・ラジウム研究所に全額を寄付した。彼女にとっては、科学の発展こそが報酬だったのだ。