父、35歳、末期がん。2歳の息子からの贈り物
2018年12月21日 公開 2019年02月15日 更新
なにが「幸せ」か、どんな治療をするかは、患者に残された最後の権利
よく知られているとおり、抗ガン剤は苦しく、一部では“増ガン剤”なんて揶揄されるほどだ。
「ガンは苦しんで死ぬ」というイメージがあるが、医師は1%の可能性にかけて無理のある抗ガン剤治療を施しがちだ。治らない末期患者に抗ガン剤を使って苦しめる必要はない。
「頑張って、1分1秒でも長く生きてくれ」
こうした励ましをくれる人がたくさんいたけれど、抗ガン剤の副作用で苦しみ、息子と遊べず、妻とも話せず、下の世話をしてもらって機械で生かされたあげく死ぬ人生に、何の意味があるのだろうと考えた。
どんな治療をするかしないか。
その線引きは医師でも親族でもなく、患者に残された最後の権利なのだ。
それでも「長く生きてほしい」という気持ちは善意だし、僕だって妻や息子が病気になったら同じことを思うかもしれない。
その気持ちを繙いていくと、「自分が悲しみたくない」というところに着地する。
自分が悲しみたくないから、死んでほしくない。
本人の幸せを考慮したものではなく、実は利己的だったりするのだ。
「長く生きていて」というのは案外、優しいことではないのだろう。
だから息子には、いつか大切な人の病に直面したとき、「長生きしてね」とたやすく言う前に、その人の幸せの定義について、考える優しさを持ってほしい。
命にかかわることだと誰だって冷静になれなくなるから、しっかり、この2つを考えることを覚えておいてほしい。
その人にとって、幸せとはなにか。
ただ1日でも長く生きていることが幸せなのか。
「幸せ」が何かは、自分で決めていいんだよ。
僕は幸せになることが子どものころからの夢だった。
そして幸せとは、「何の不安もなく、望んだことができていること」だと思う。
幸せの定義は人それぞれで、これはあくまでも僕の場合だ。
たとえば、異性にすごくモテたいと思っている人は、モテれば幸せ。
たとえば、お金が幸せだと思っている人は、お金があれば幸せ。
そんな人たちに、「幡野さんはもう結婚していてモテないから不幸ですね」とか「お金持ちじゃないから幸せとは言えませんね」と言われても、大きなお世話だ。
「長生きして」と安易に言うのはそれに似ている。
子どものころに噛まれて以来、僕は犬が嫌いで怖いし、猫は理由なく好きだ。
それなのに「こんなにかわいいんだから、好きになりなよ」と、尻尾をパタパタ振る子犬を押しつけられ、「猫なんて本当は好きじゃないでしょ。素直になりなよ」と飼い猫を勝手に連れ去られる感覚にも似ている。
子どもを持つのが幸せじゃない。結婚をするのが幸せじゃない。定職があるのが幸せじゃない。
幸せが何かは自分で決めていいと、息子に伝えておきたい。