無駄に「自分を疲れさせるもの」の正体
あなたは利己主義である。しかもそれは小心な利己主義である。だから常に深く自己批判する。
小心な利己主義者は同時に小心な倫理性をそなえていて、感情生活はいつも緊張している。この過度の緊張が人を疲れさす。
無益に自分を疲れさせる感情生活の不安な緊張のもとにある人は、繊細で傷つきやすい。小心な倫理性をそなえた小心な利己主義者は心のなかで常に葛藤し、落ちつきと自信に欠ける。
他人が自分を愛してくれているかどうかばかり気にかけている人は、家のなかから寒いところに他人と一緒に出た時、思わず「寒くないか」と他人を思いやることはできない。
他人が自分を立派だと思ってくれているかどうかばかり気にしている人は、思わず他人に手をさしのべることがない。
他人が自分を好きである、受け入れてくれているという確証を得ることばかり気をつかっている人は、他人への関心はもてない。心の不安に気をとられて他人へ気がまわらないのである。
このように不安な人は他人の痛みを思いやるゆとりなどない。他人が何かでころんでも「どこかケガはなかったか」と思わず気にかけることはないのである。
他人が自分のことを思いやるように求めるが、自分が他人に思いやり深くなることはできない。
無益に自分を疲れさす感情生活から解放されたければ、自分の過去をありのままに認めることから出発しなければならない。
無益に自分を疲れさす敏感性格者は、まず第一に自分の過去を反省し、現在の心の葛藤を自分のまえに明らかにすることである。
そして、過敏なまでの自己批判、張りつめた余裕のない正義感の言動を止めることである。
自己主張の強い人と付き合うと自分が開放されていく
神経症的人間は、自己主張する人と付き合うことである。
自分はこう思う、自分はこう感じる、自分はこうしてほしい、とはっきり主張する人と一緒にいると、いつの間にか自分だって自己主張していいのだという気に、ふとなってくる。
相手は自分にこうしてくれ、ああしてくれという。同じように自分もまた相手にああしてくれ、こうしてくれ、と言ったっていいのだという気になってくる。
自己実現している人と接していると、そう感じられてくる。
しかし、神経症的支配的な人と一緒にいると、相手は自分にこうしろああしろと要求しても、自分の方は相手に要求してはいけないと感じる。
ただひたすら相手に奉仕するだけである。それは小さい頃からあなたの周囲にいた神経症的な人が、あなたに一方的に献身を要求していたからである。
そしてあなたの要求については全く周囲の人は気がつかなかった。周囲の人のあなたへの要求はものすごかったが、あなたの周囲への要求は100%無視された。
そうして育ってくる間に、いつの間にか自分は何も要求してはいけないと感じてしまったのである。もし何かを要求すれば、それは嫌われる、と感じてしまった。
あなたは愛されたことがない。そこで愛情欲求は強い。そしてその欲しい愛を手に入れようとひたすら相手に従順であった。
しかしあなたの周囲にいた神経症的な人は、他人を愛する能力をもっていない。かくてあなた自身も神経症的になってしまったのである。
ところが自己実現している人は、自分の要求もはっきりしているが、相手の要求にも気がつく人である。自分の要求もはっきりするが、相手の要求もかなえてあげようという姿勢がある。
おそらくこのような姿勢が無意識につたわって、「自分だってはっきり要求したっていいんだ」という気持になるのではなかろうか。
たしかにあなたが従順に従っていた神経症的人間に対して、あなたが何かを要求すれば拒絶されたろうし、嫌われたであろう。
しかし自己実現している人間は、あなたが何かを要求したからといってあなたをそのことで嫌うことはない。
頭のなかでただ「人間は自己主張すべきだ」などと何回言っても、それで自己主張できるようになれるわけではないのだから。
【著者紹介】加藤諦三(かとう・たいぞう)
1938年、東京生まれ。東京大学教養学部教養学科を経て、同大学院社会学研究科修士課程を修了。1973年以来、度々、ハーヴァード大学研究員を務める。現在、早稲田大学名誉教授、日本精神衛生学会顧問、ニッポン放送系列ラジオ番組「テレフォン人生相談」は半世紀ものあいだレギュラーパーソナリティを務める。