「全財産を使ってお母さんを助ける」
「お前たち2人にお願いがある」
聞く前からなんでもやるつもりだった。おそらくそれは幸士も同じ気持ちだったと思う。
「俺は何があってもたつみを助けたい。どんなことをしてでも」
父の言葉は本気だった。
そもそも軽い気持ちや単なる見栄でそんなことを言うなど九州男児としてありえない。
「自分の言葉には絶対に責任を持て」と言い続けてきた父の言葉は深く響いた。
「俺の全財産を使ってでもあいつを助ける。それが俺の役目だ。茂久、幸士。お前たちも手伝ってくれるか?」
「うん、もちろん。なあ幸士」
「当たり前。俺ももう経営者だし」
父は厳しい事業家で、とても堅実なタイプだ。何も考えずに使ってしまう僕とは違って相当な資産を持っているはず。その父が全財産をかけるという。
ことの重さがどんどん自分の中にのしかかってくる。
油断するとこっちまで泣いてしまいそうだ。でも今はだめだ。一番辛いのは母本人なのだから。
「そうか。ありがとうな。そしてもう1つお願いがある」
「なんでも」
「俺はたつみの身の回りのことを全部やる。茂久は本を書くようになって心の仕組みの勉強をしてきたよな。だからたつみのメンタルのフォローをしてくれないか?」
「わかった。俺の持ってるすべてのノウハウを使って母さんの心を明るくするよ」
「幸士も茂久をフォローしながら、できるだけたつみに連絡を取ってやってほしい。オープンしたばかりだから無理なくでいいからな」
「うん」
こうして妻や孫たちを巻き込んだ、僕たち男3人での「たつみちゃん復活プロジェクト」がはじまった。
宣告
翌日、中津市民病院。
店をオープンしたばかりの幸士を福岡に戻し、父と僕が結果に立ち会った。
母を先生の前に座らせ、隣に父、そして僕は母の後ろに座った。
年の頃40代中盤くらいの先生だった。
まずは先生がすい臓の場所や機能、肝臓やたんのうとの関係性を丁寧に教えてくれた。
「先生、それで病名は」
説明はいい、とばかりに父が遮って聞いた。先生は話をやめて一呼吸置いて答えた。
「すい臓癌です。たぶん間違いないでしょう」
「…そうですか」
母は毅然と答えた。
しかしその次の言葉は予想していなかったようだった。
「おそらくこちらの肝臓部分の白い影は転移かと」
宣告の重さは父から聞いておおよそ覚悟はしていたものの、想像と実際に聞くのとでは威力が違った。転移のことまで聞かされていなかった母のショックは僕たちの比ではなかったと思う。
すい臓癌の肝臓転移。もともと病気に詳しい母だから、この意味は即座に理解したのだろう。背中の力が抜け、肩がガクッと落ちた。それを父が支えた。僕はその光景を後ろから見るだけだった。
病室を出て父が会計をする間、母は僕の手をずっと握っていた。心なしかその時点で、すでに痩せはじめているように感じた。
翌日、僕は福岡に戻り、出店当初からずっとお世話になっていた女性経営者を訪ね、母の病状の相談をした。
その方の名前は藤堂和子さんといって、福岡でその人を知らない人はもぐりだと言われるほどの大経営者で、「日本の人脈」と言われている方。あっという間に僕の目の前で九州大学病院の特別室を押さえてくれ、そのまま母は入院になった。
運を持っている人というのはいるのだな、ということを自分の母を見ながら感じた。癌の発覚以来、闘病生活とは思えないほどたくさんの人が支えてくれた。