「前座に恥ずかしさを感じろ」立川談慶が語る、逃げ場を作らせない師匠の厳しさ
2021年12月14日 公開
寄席のような緊急避難の場はない
将来へはばたくべき未来の落語家の卵たちは、ある程度、外部とは隔絶され、いろんなものからシャットアウトされた場所に置かれるわけですが、その際一番怖いのが「効率」を追い求める現代の価値観に翻弄されてしまうケースです。
「時代遅れだよ」なんて、私も前座時代に訳知り顔の半可通の大学の先輩方によく言われましたが、「時代遅れ」でないと芸人らしくならないのですから、その指摘はナンセンスなのです。「効率」とは真逆な世界こそが前座修業なのです。
ただ、そういった後進の育成の場として伝統的に機能してきた「寄席」という場所を拒絶したのが立川流でした。寄席は落語界のしきたりを学ぶ厳しい道場でもありますが、同時に前座仲間などいわゆる同世代の落語家たちが肩を寄せ合い、先輩からの軋轢を緩和させることの出る「安らぎの場所」でもあります。
つまり、寄席に出ない立川流には談志の前にいる限り、「逃げ場」すらないのです。その苛烈さを象徴するのが「前座は侮蔑語」という師匠の言葉ではなかったかと思うのです。実際立川流には「同期」という存在の落語家仲間はいません。タテのつながりこそすべてです。
「俺のところに来たということは、寄席のような緊急避難の場所はないと思え。そのために俺はキャリアや年数ではない昇進基準を設けた。前座とは入門初期の落語家への生易しい呼称ではない。侮蔑語なんだ。ここは落語協会ではない。俺の基準ですべてを決める立川流なんだ。侮蔑されるのが嫌だったら、とっとと昇進しちまえ」
「前座という身分に恥ずかしさを感じろ」――つまりは「その恥ずかしさに対する感受性こそが、昇進への原動力なんだ」という教えだったような気がします。そして同時に「そんな恥ずべき期間をお前は7年以上もやっちまっているんだぞ、恥を知れ」という当時の私への脅しだったのでしょう。
いずれにしても、今こうして師匠の言葉をやっと振り返って分解、咀嚼している私です。今やっとわかったレベルの私ですから、当時のリアル談志言葉はまるでわからない難解なものでした。