招待者へも欠かさない「猪木の気づかい」
フィゲレイド氏の別荘でのランチは、シュラスコだった。ブラジルを代表する肉料理である。
串に刺さった肉は次々に焼かれて、我々はタロイモの白い粉を付けて食べた。絶品のシュラスコだった。甘いカイピリャーナが酔いを誘い、さらに肉の味を引き立てる。
満腹感と心地良い酔いの中、大統領は馬小屋やワインセラーを案内してくれた。その後、猪木は2時間ほど木陰のハンモックで揺られていた。
大統領は遠くの山の上を指差すと、「いまだにあそこから、ここを見ている奴らがいるんだよ」と笑った。奴らとは新聞の記者やカメラマンたちのことだ。
日本で自由に写真を撮らせてくれたのは、やはり特別なことだったのか。本来はマスコミが嫌いなようだ。どこの国でもそうだが、大きく書かれるのは悪いことばかりだからだろう。
猪木が目を覚ましたので、夕刻、フィゲレイド氏に別れを告げて車に乗った。帰り際、フィゲレイド氏は自分の肖像写真に「戦え!」というメッセージを添えて私に渡してくれた。
また2時間、車に揺られてリオのホテルに戻ったが、猪木に伝言が入っていた。日本領事館からのもので、「夕食を用意しています」とのこと。再び食事の誘いである。
私はこのまま何もしないで寝てしまいたい気分だったので、猪木の顔を見た。だが、もう迎えの車がホテルに来ているという。結局、領事館に行くことになった。
ここには、お抱えの日本食のコックがいる。到着すると、天ぷらや日本食がふんだんに用意されていた。私はシュラスコとカイピリャーナで満腹だったから、すでにギブアップ寸前である。
領事に「あまり食べないんですね」と言われると、猪木は答えた。
「若い時は食べましたが、今はそんなに食べないんですよ」
こういう時、猪木は招待者への気遣いを忘れない。しかも、そう言いながら料理を次々と食べ続けている。猪木の胃袋は一体どうなっているのか。
以前、川崎の焼肉店の主人に聞いた話だが、若い頃の猪木は丼に入ったユッケをスプーンで食べていたという。
イタリアで一番有名な日本人?ジーコの息子へ「虎のマスク」を…
リオではコロール政権のスポーツ庁長官に就任したジーコとも会った。イタリア・セリアAのウディネーゼでプレーしていたジーコだったが、すでに引退して母国に戻っていた。
「日本に来て、サッカーを教えてください」
猪木はジーコにそう言ったが、この時は監督かコーチをしてほしい、という意味だったはずだ。その後、まさかジーコが現役に復帰し、鹿島アントラーズに入団してJリーグでプレーするなんて夢にも思わなかった頃の話である。
猪木は、それほどサッカーに詳しくない。ペレについては知っていたが、ジーコについてはそれほど知らなかったはずだ。そこは会談の前に周囲の人間がいろいろ経歴などを教えてくれるから問題ないのだが、この時はむしろジーコの方が猪木に会えて嬉しそうにしていた。
1980年代後半から1990年代前半、猪木の新日本プロレス時代の映像がイタリアで放送されていた。つまり、ジーコはセリアAにいた頃、現地で猪木の試合を見ていたのだ。
同じく新日本の中継を見ていたジーコの息子が「タイガーマスクのマスクが欲しい」というので、猪木は帰国後、虎のマスクをブラジルに送ったそうだ。