ウクライナ戦争は長期化の様相を呈しているが、開戦を決めた為政者は果たして終戦のビジョンを持っているのだろうか。太平洋戦争時に東条英機首相が示したあまりにも稚拙な戦争観と、東条内閣が始めた戦争に従軍した兵士たちの「戦死のリアル」について、ノンフィクション作家の保阪正康氏が語る。
※本稿は、保阪正康著『昭和史の核心』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
終戦構想なき為政者
太平洋戦争が始まってから8日後の昭和16(1941)年12月16日に、衆議院の委員会で「言論出版集会結社等臨時取締法案」の審議が行われた。東条英機内閣提出のこの法案は、対米英戦争を想定して8月の段階では法案の形を保っていた。当初は議会に諮ることなく緊急勅令案の予定だったという。
しかし戦争遂行のために、国民は一切の権利を失うことになるのだから、議会での承認も必要ではとなり、この日の審議となったのである。
まず委員会では、東条首相が法案の提案説明を行った。開戦となったとはいえ、出版結社などは届け出制になっていて現実には放任の状態になっていると言い、これでは「今次ノ戦争ノ如ク、何時敵機ノ襲来ヲ見ルヤモ知レザル非常ノ時機ニ際シマシテ、治安保持ノ万全ヲ期シ得ナイ憂ヘガアル」、それゆえにこうした権利は許可制にするというのであった。そのあとに委員が質問に立つ。
最初の質問は、弁護士でもある勝田永吉である。勝田はこの法案でいう「戦時」とはどういう意味かとただす。
「宣戦ノ大詔ヲ発布セラレマシテ、ソレカラ戦時ガ始マツテ講和談判ニナツテ、条約ガ出来テ御批准ニナレバ、是デ戦時ハ終ルモノデアル」と理解しているが、この点をはっきりしてもらいたいと東条に尋ねる。
すると東条は戦争目的をこの法案に書いてあるが、その目的を達成するまでが「戦時中ヲ意味スルノデアリマス」と答える。
勝田は、いやそうではなく法律上で戦争が終わるとはどういうことかを聞いている、と重ねて聞く。東条は「宣戦布告、是ガ戦時ノ始マリ」であり、「平和克復、ソレガ戦時ノ終リデアリマス」と答える。
勝田は東条ではなく、内務次官の湯沢三千男に答えるように求める。他の委員の質問も終わったあとに、委員長の島田俊雄も、政府の答弁はいいかげんではないかと注文をつける一幕もあった。
しかし真珠湾攻撃に成功して国会全体が浮足だっているとき、東条のこういう無知な答弁はみすごされてしまった。委員長の島田自身、この前日には立法府を代表し、陸海軍に対して「聖戦完遂決議案」の説明を行っていたからである。
本質的な議論など初めから行うつもりはなかったということになる。ただ勝田が尋ねた「戦時の終結」とはどういうことかという質問に対しての、東条首相の答弁はあまりにもひどすぎる。中学生並みといってもいいのではないかと思われる内容である。
日本の伝統的文化への背反
なぜ今、こうした史実に着目するのか。実は日本は戦争を始めたはいいが、その終わり方をまったく考えていなかったのである。前述の東条の答弁はそのことを正直かつ明確に語っている。軍人が戦争の終結を法的にも歴史的にもまったく考えていない理由は、たった一つである。
つまり勝つまで戦うという思考しかない。どれだけ国土が荒廃し、国民が死に追いやられようとも、とにかく勝つまで戦うというのが、彼らの戦争論なのだ。
昭和20(45)年8月10日ごろの東条の残したメモでは、国民がこれほど簡単に音をあげるとは思わないで戦争指導にあたった自分は間違っていたと筋違いの反省を示したが、それは「勝つまで戦う」のが戦争と考えていたことを裏づけている。
太平洋戦争の開戦前の昭和16(41)年11月15日、大本営政府連絡会議は「対英米蘭蔣戦争終末促進に関する腹案」をまとめている。この腹案の方針は、日本やドイツが制圧地域を広め、「先ず英国の屈伏を図り、米国の継戦意志を喪失」させる点に主眼が置かれていた。
ドイツはソ連で不利な状況にあり、米英とも一致して枢軸側との戦争を望んでいるのに、日本はすべてを自分に都合のいいように考えて太平洋戦争に突入していったのである。
主観的願望を客観的事実にすり替え、現実を見ずに自らの幻想の中に入り、そして戦争というもっとも冷酷な現実を選択した。こうした史実を改めて整理して、政治的、軍事的にあの戦争はまったく無理だったと100回くり返したとしても真の反省にはならないであろう。
私は真珠湾の戦いからの3年8カ月の戦争の期間を、東条首相の答弁に代表されるように「常識の欠如」や特攻作戦や玉砕戦術に見られるごとく、私たちの国の伝統的文化(共同体に伝承する死生観や人生観)に背反する文化的錯誤の結果ではなかったかと位置づけたいのである。
改めて問われているのは戦争の形ではなく、その選択や遂行の中に私たちの国の文化的遺産がまったく反映していなかったのではないかというのが、私は悔しくてならないのである。