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生き方

哲学者が語る「幸せな老後を送っている人」に共通する3つの態度

岸見一郎(哲学者)

2024年01月11日 公開 2024年02月16日 更新

哲学者が語る「幸せな老後を送っている人」に共通する3つの態度

日本人の平均寿命は男女ともに伸び続けており、何十年と続く長い老後をどう生きるか、その方法を模索している方は多いでしょう。幸福で穏やかな老後を実現させる術とはどんなものでしょうか? 本稿では、そもそも「幸福」とは何か、そして自分のため、周囲のためにどう生きるべきか、哲学者の岸見一郎さんが語ります。

※本稿は、岸見一郎著『老いる勇気』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

毎日を機嫌よく生きる

幸福でありたいと思い、その術や生き方の指針を求めるならば、まず「幸福とは何か」ということを考えることから始める必要があります。

人生とは何か、人間にとって幸福とは何か──。これは古代ギリシア以来の哲学の中心テーマであり、永遠のテーマでもあります。生きている限り向き合い続けなければならない問いであり、その問いに答えることは容易ではありません。

しかし、だからといって人間が幸福について、まったく何も知らないかというと、そうではありません。知らないものを、知ろうとするはずはないからです。

「自分は今、不幸だ」と思っている人も、幸福な瞬間を経験したことがあるからこそ、そう思うのです。幸福を経験していても、それが幸福であることに気づかずにいるのかもしれません。

幸福は空気のようなものです。空気があることを普段は意識することがないように、幸福であるのにそのことに気づかないのです。

三木清が、幸福は「存在」に関わるといっていることは先に見ました。人は幸福に「なる」のではなく、幸福で「ある」のです。そのことに気づくことが幸福になるということです。

三木清は、「幸福は力である」といっています。それは単に内面的なものではなく、真の幸福は、鳥がさえずり歌うように「おのずから外に現われて他の人を幸福にする」といいます。他者に気づかれない"内に秘めた幸福"や、一人だけが幸福であるということはなく、本当の幸福は、周囲に伝染して、他の人を幸せにする力を持っているということです。

幸福がどのような形で外に現れるのかということについて、三木は「機嫌がよいこと」をその筆頭に挙げています。弾けるように上機嫌であるというよりも、穏やかで気分が安定していることをいっているのだと思います。

朝から不機嫌で恐い顔をしている人は、その人自身がその日をつまらなくしているばかりか、腫れ物に触るように接しなければならない周りの人の気分をも悪くします。

生きていれば、時には嫌なこともあるでしょう。しかし、そのことに心を奪われ、不機嫌を露にしても、事態が改善されることはありません。幸せな老年を望むのであれば、まずは毎日を機嫌よく迎え、機嫌よく過ごすことです。

幸福は、「丁寧である」「親切である」という形でも現れると三木は書いています。誰かに何か頼まれた時、いつも丁寧に対応しているでしょうか。手紙を書く時は丁寧に言葉を選び、気持ちを込めて筆を運んでいるでしょうか。

忙しかったり、気になることがあったり、いらいらしていると、おざなりな対応しかできなくなります。「ちょっと手を貸して」と声をかけられても、面倒に思い、「ちょっと待って」「あとで」と応えているような時は、態度も口調もぶっきらぼうになっているものです。

差し迫って忙しい、あるいは困憊しきっているのでなければ、自分の時間を少し譲るくらいの気持ちで、求められたことに対して丁寧に対応する努力をしてもいいのではないかと思います。

他者から援助を求められた時、可能な限り力になるというのは「親切である」ことにつながります。もちろん、すべての求めに応えられるわけではありませんが、力になろうとすること、なりたいと考えることは大事です。誰かの力になることで感じられる幸福は、援助を受けた側の人にも伝わります。

ここで重要なのは"援助を求められた時に"という条件です。他者が助けを必要としているのではないかと思った時に、「何かお手伝いしましょうか」「できることがあったらいってください」と声をかけるのは親切ですが、「きっとこうしてほしいはず」と、勝手な思い込みで動くと嫌がられます。

 

他者の課題に土足で踏み込まない

外に現れる幸福の証しとして、三木は最後に「寛大であること」を挙げています。これは、自分とは異なる考えや価値観を持つ人を受け入れるということです。

親子といえども、いかに親しい仲間であっても、考えが相容れないことはあります。それが顕在化した時に、どう対応するかということを、私たちは絶えず考えていかなければいけません。

寛大であることは、必ずしも異論に賛成することではありません。「それは違う」「あなたは間違っている」と否定するのでも、自分の考えを曲げて「あなたのいう通りだ」と同調するのでもなく、他者の考えを理解する、ということです。少なくとも理解しようと努め、互いの違いは違いとして受けとめることが大切です。

これはしかし、実際にはなかなか難しいことです。誰に対しても寛大であることは、機嫌よくあることや丁寧、親切であること以上に難しいことです。

寛大であることを難しくしている理由の1つは、「課題の分離」ができていないところにあります。

例えば、子どもや孫が、自分の理解を超える進路選択をしようとしているように見える時、どう対応するでしょうか。

彼らの将来を心配してのことだとしても、「やめなさい」「世の中は、そんなに甘くない」と説教をしたりすると、たとえ正論であっても、正論であればなおさら受け入れてもらえません。これは相手の課題に土足で踏み込む態度、対応です。

対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込む、あるいは踏み込まれることから起こります。自分の考えは、いってもいいですし、いわなければならない時もあります。

しかし、その場合は「自分の考えをいってもいいか」と訊ねなければいけませんし、自分の考えをいっても相手が受け入れるかどうかはわかりません。

寛大であるということは、進路選択の例でいえば、子どもや孫の選択を受けとめ、彼らの行く末を見守ろうと決意することです。彼らには、自分の課題を自分で解決する力があると信頼するのです。

家族に限らず、他者と信頼関係を築きたいのであれば、まず、こちらから相手を信頼することが肝要です。これには勇気が要ります。多くの人は、裏切られるかもしれないという疑心から、信頼することを恐れます。しかし、裏切られることを恐れて信頼しなければ、深い関係を築くことはできません。

丁寧な対応や親切も同じです。相手が親切にしてくれたら自分も親切にするというのではなく、まず自分が親切にすることです。「ギブ&テイク」ではなく、他者から与えられることを期待して与えるのでもなく、相手から何も返ってこなくても、ただ与えるということです。

「我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか」

先述の通り、人間の幸福について論じた文章の中で、三木はこう指摘しています。自分が幸福であることが最大の他者貢献だということです。

老いてなお、日々機嫌よく丁寧に暮らし、親切で幸せそうにしていると、一緒にいる家族も幸せです。寛大な心を失わずにいれば、孫から相談が持ち込まれることもあるかもしれません。

周囲が「あの人に相談してみようかな」と思えるようなおじいちゃん、おばあちゃんになることは、幸せな老いのあり方の1つだと思います。

子どもは、大人の「いう」ことではなく、大人が「している」ことから学びます。家族や自分よりも若い人が、自分の姿や生き方を見て、「そうか、あのように生きていると幸せなんだ」「あんなふうに歳を重ねていけるなら、老いるのも悪くないな」と感じられるようなモデルになりましょう。

三木が書いている通り、「おのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福」なのです。

 

わからないことを素直に認める勇気

齢を重ねたからといって、立派な人間になるわけでも、尊敬される老人になれるわけでもありません。そうなるには不断の努力が必要です。歳老いてこそ様々なことを学んでいかなければいけないし、本を読んで考えることをし続けなければ、人間としての成長は望めません。

いろいろなことができなくなったとしても、本を読むことができれば、それは幸せなことだろうと思います。そうやって齢を重ね、知識と経験を積み重ねて、いろいろな意味でモデルとなりうるような成長を続けていかなければなりません。

その過程で心に留めておかなければならないのは、完全でなければならないと思わないことです。なぜ若い人が年長者の話を聞かないかというと、年長者がわかったふうないい方をするからです。

「そんなこともわからないのか」「歳をとれば、いずれわかるようになる」というようないい方です。いかに齢を重ねても、わからないことはわからないと率直に認める勇気を持たなければなりません。

ドイツの哲学者カール・ヤスパースは、人間は「道の途上にある存在」だといっています(『哲学入門』)。大人がそれを自覚し、若い人からの問いに対して「それは私にもわからない」といえる勇気を持ってほしいし、年長者にもわからないことがあることを、若い人が知ることも大事だと思います。

わからないことや知らないことがあることは、恥ずかしいことではありません。対等な関係を心がけ、一緒に考えていこうとする姿勢があれば、年齢や立場を超えて、互いにたくさんの気づきが得られるはずです。

 

著者紹介

岸見一郎(きしみ・いちろう)

哲学者

1956年、京都府生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古典哲学、とくにプラトン哲学)と並行して、89年からアドラー心理学を研究。精力的にアドラー心理学やギリシア哲学の翻訳・執筆・講演活動を行なう。著書に『アドラー心理学入門』(ベスト新書)やベストセラーとなった『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)など多数。

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