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生き方

「子どもの一番の理解者」を自認する親が、実は抱える支配心の正体

岸見一郎(哲学者)

2024年05月16日 公開

「子どもの一番の理解者」を自認する親が、実は抱える支配心の正体

『嫌われる勇気』の著者である岸見一郎氏は、「愛とは、相手を理解しようとすること」だと述べる。では相手を理解するためにはどうすればよいのか。哲学者が愛について真摯に考える。

※本稿は、岸見一郎著『つながらない覚悟』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

 

相手を理解しようとするのが愛である

人のことはそもそも理解できないのかもしれない。しかし、だからといって決して理解できないと絶望しなくてもいい。キム・ヨンスはこういっている。

「私が希望を感じるのは、人間のこのような限界を見つける時である」(『세계의 끝 여자친구』작가의 말)

限界があっても希望はある。限界があることにすら気がついていない時には、相手を深く知ろうと努力しない。相手を完全に理解できない、少なくとも完全には理解できないという限界があることを知っていると、いっそう相手を知りたいと思うのではないか。

「私たちは努力をしなければ、互いを理解することはできない。愛とはこういう世界に存在している」(前掲書)

相手を理解したい、理解しようとする。これが愛である。ただ一緒にいるだけでは、いい関係を築けない。互いを理解する努力が必要である。これは容易なことではないが、相手をよりよく知ろうとする努力は、喜びとしての努力である。

「そして、他者のために努力するというこの行為自体が、私たちの人生を生きるに値するものにする」(前掲書)

ここでいう努力は、他者のために何かをする努力ではなく、他者を理解しようとする努力である。自分だけで生きているのではない。自分と共生している他者を理解する努力をするという行為が、人生を生きるに値するものにするのである。

 

支配するために理解するのではない

相手を支配するために理解しようとする人がいる。支配しようとする人は、理解しようとするのではなく、理解していると思っているのだろう。

親が「私は親なので子どものことを一番よくわかっている」という時、親は子どものすべてを理解しているという優越感を持つ。それは子どものすべてを把握し、コントロールできているという優越感でもある。

しかし、子どものことが理解できないと思う経験をすれば、優越感は劣等感になる。親であっても子どものことがすべてわかっていなくていいと思えれば、そのような自分を受け入れることができ、理解できないところはできないままに子どもを受け入れることができる。

しかし、親は子どもを理解しているべきだと思うと、子どもをそのまま受け入れるのではなく、理解できないところを見ないことで、子どものことは何でも理解できていて、コントロールできていると思い込まなければならない。

理解できないところを見なければ、あるいは理解できるところだけを見れば理解できていると思うだけで、実際には理解できていない。理解できていないのに理解できていると思っている子どもとの関係は近く感じられるかもしれないが、実際には近くはない。それは偽りのつながりである。

ある母親が子どもから自分の部屋を掃除してほしいと頼まれた。「自分の部屋なのだから、自分で掃除をしなさい」といって断ることもできたが、子どもが頼んだのだからと子どもの部屋に入った。

母親は机の上に日記帳があるのに気づいた。そして、ページが開かれているのを見た。母親はつい読んでしまった。「つい」というのは本当ではない。多少なりとも、読んでもいいかとためらっただろう。

母親は子どもの日記を読んではいけないと思っただろう。しかし、翌日も部屋に入ると前日と同じように机の上に開いて置いてあった娘の日記帳を読んだ。こんなことが一週間以上続いた。ある日、日記を読むとそこにはこのように記されていた。

「お母さんは一体いつまでこんなことを続ける気ですか」

母親が娘の日記帳を読んだのは、ただ好奇心からだけではなかっただろう。直接言葉を交わすことがない娘が何を考えているのか、親が知らないところで何をしているのかがわからなくて不安に思っていた。だから、日記を読むことで、娘の考えていることやしていることを知りたかったのである。

もしも日記に親の理解を超えるようなことが書いてあれば、読まなかったことにするか、自分の理解に合わせようとする。あるいは、黙って日記を読んだことを子どもから責められたとしても、子どもを問い詰めるだろう。ただ、子どもを理解したいために読んでいたわけではなかったのである。

親である自分に子どもが何も話さないことを悲しんだり怒ったりするかもしれない。子どもが何を考えているかをすべて把握していなければならないと思っても実際にはできない。

子どもを親がコントロールすることはできない。それにもかかわらず、子どもをコントロール、支配するために子どもを理解しようとするのだが、ここでいう理解は自分が好意を持っている人のことを理解したいという時の理解とは違う。

 

相手を理解するためにできること

相手を理解することはここまで見たように容易ではない。とはいえ、相手を理解したいという思いを持つことは大切である。親子関係を例に見てきたが、親は子どもを理解したいと思う。子どもも親から決して理解されたくないとまで思っているわけではない。できるものなら親に正しく理解されたいと思う子どもはいるはずである。

どうすれば相手の理解に近づけるだろうか。理解しようと努力しても、その理解が正しいかどうかがわからないのであれば、たずねるしかない。相手を理解していると思ってたずねなければ、独りよがりな理解は関係を悪くする。

たずねてみて、思いもよらない答えが返ってきたら受け入れるしかない。この子どもは私のことが好きに違いないと思っても、子どもが親を好きではないといったとしたら、受け入れるしかない。

親にとって容易ではないが、大事なことは子どもが自立することなので、子どもが親から離れていくことは望ましいことである。好きではないといわれても、本当は好きなはずといってはいけない。子どもの思いを理解した上で、子どもとどう関わっていくか考えていくしかない。

もう一つ知っておくべきことは、理解することと、賛成、あるいは反対することは別だということである。理解できたとしても、賛成できないこと、受け入れられないことはある。

親は子どもの生き方が理解できないとしても、それを間違いだとはいえない。賛成できないといい、その理由を説明することはできるが、賛成できないために怒りを感じたり、悲しかったりしても、親が自分で解決するしかない。

子どもの立場からいえば、親が自分の考えを理解することは期待できないかもしれない。しかし、初めから親は何もわかってくれないと思うことはない。説明した上で親が理解してくれなくてもそのことを受け入れるしかない。

もう少し踏み込んで、自分も相手に理解してもらうために自分の考えを伝えることができないわけではない。自分の考え、意見であることを強調して話せば、話を聞いてもらえないということはないだろう。ただし、相手を理解し、自分も理解してほしいと思って自分の考えを伝えるのは、あくまでも相手の力になりたいからであって、自分の考えを押し付けるためではない。

このようにして互いに考えを理解する努力をすれば、たとえ相手が自分の思うような生き方をしないとしても、関係が悪化することを防げるだろう。

 

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