
(写真提供:やなせスタジオ)
漫画家・やなせたかしさんが作詞を手がけた名曲『手のひらを太陽に』は、国民的な童謡として、今も広く歌い継がれています。
「ぼくらはみんな生きている 生きているからかなしいんだ」「手のひらを太陽に すかしてみれば」といった印象的な詞には、やなせさんのご経験や思いが込められていました。
※本稿は、やなせたかし著『何のために生まれてきたの?』(PHP文庫)より内容を一部抜粋・編集したものです
それは生きている証なんです
――『手のひらを太陽に』は、やなせさんの作詞ですね。あの詞はどのようにして生まれたんですか?
僕が、漫画家でありながら、漫画の仕事がまったくなくなっていた時期につくったものなんです。夜、仕事場で、手に懐中電灯を当てて遊んでいて。よく、子どもの頃"レントゲンごっこ"というのをやっていたんだけど、血の色が見えるんだ。真っ赤でね、すごくきれいだったんで、自分に元気はなくても、血はすごい元気なんだなあって思って、それを書いたというわけ。
でも懐中電灯じゃ具合が悪いんで、"太陽に"ってことにしたんですよ。まさかあの歌が、こうやって残っていくとは全然思わなかったけど。
―― 一番の歌詞は「ぼくらはみんな生きている、生きているからかなしいんだ」で、二番が「生きているからうれしいんだ」。なぜ「かなしいんだ」が一番になったんですか?
生きてなきゃ、「かなしい」という気持ちになることもないんですね。そして、かなしみがあるから喜びがある。悲喜交交と言うでしょ。喜悲交交とは言わない。かなしみがあって、喜びがある。
しかし、かなしいっていうのは、ただ涙を流して泣くっていうことではなしに、人生っていうのは一種のかなしみがあるんです。いずれ我々は死ぬ、愛別離苦のこの世界にいるわけなんです。ですから「かなしい」のほうを先にした。それで二番は「うれしい」に。ようは悲喜交交に合わせたんです。
よく質問されますよ、「なんで、生きているのにかなしいんだ」って。死んでしまえば、かなしいもうれしいもないです。生きているから、かなしいの。それから生きているからつらいとか、痛いとか、いろんなことがあるわけ。それは生きている証なんです。ですから喜びよりも、むしろかなしみのほうが強い。だからかなしみを先に持ってきたわけです。
それで、かなしみというのは、ずーっと続くわけじゃない。その後には喜びがある。幸福っていうのは、不幸せでなければわからない。不幸せになった時にはじめて、幸福っていうことがわかる。
普通にライスカレーなんかを食べたりしているでしょ。ところが、食べられない状態になると、それがどんなに幸せなことだったかに気づく。つまり、つらい状況に置かれないと、その幸せはわからない。
『青い鳥』のチルチル・ミチルは、幸せの国をさがして歩く。しかし、最後に帰ってきたところは、むかし自分がいたところで、「幸せの国は自分のところにあった」ということに気がつきますよね。あれと同じなんです。