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生き方

蜷川幸雄・演劇ほど面白いものはない

蜷川幸雄(舞台演出家)

2017年05月16日 公開 2024年12月16日 更新

『演劇ほど面白いものはない(100年インタビュー)』より
※2012年9月4日掲載記事を再掲載
 

最後まで、枯れずに、過剰で、創造する仕事に冒険的に挑む、疾走するジジイであり続けたい

――演劇が、この時代に達成できる可能性って何でしょう?

まず、現代を最も特徴づけるものは、最先端の科学によって送られてくる、圧倒的な情報だと思います。

そんな時代に、演劇というメディアは、ある日ある時ある場所へ、自分が選んで行かなければ出合えない、唯一の媒体です。

実演の魅力というか、生身のリアクションを見ながら成立する、最も根源的で、人間的なメディアだと思う。

限定された場所でしか共有できない、現在進行形の芸術。それが演劇で、この世に芝居ほど面白いものはないといえるでしょう。人類の古代から延々と続いてきた、実に古臭いメディアではあるけれど、絶対にどんなことがあっても消えることがないメディアともいえる。

だから、僕は演出する際に、電子頭脳のように進んだ技術、あるいは映像を使って、激しい場面転換をやるような方法はとらない。

演劇がいちばんシンプルな形で動き、演劇的な想像力の世界を、人の手作業によって創っていくという、僕らの方法に固執したい。そこにこそ、演劇の面白さがあると思うからです。

演劇に込められるメッセージは、それを選ぶ演出家の、あるいは作家の個性によって決まると思う。

 

若い世代への経験の継承と、托したい希望

僕らの世代は、古い演劇を壊そうとして、ヨーロッパだけではなく、日本のさまざまな近代化の中で切り落とされてきたものもふくめて、自分たちの演劇を問い直そうとしてきた。

同時に、世界へ出ていく中で、日本人の演劇の存在理由を明確にしたいと思って、仕事をしてきました。

若い世代について言えば、1つには、演出プランに耐えるだけの俳優さんを育て上げなければならないと思う。彼らは訓練されてもいないし、そういう要求を厳密にされてもいない状態といえます。

僕らが若い頃は、ヨーロッパ演劇をさんざん勉強してきた。日本の古典芸能などはやらず、論理と言葉で、スタニスラフスキー・システムという演技論で戯曲を分析し、言葉の裏の意味を明確にしていくことをやらされた。

まあ荒っぽく言えば、外国演劇のコピーみたいなもので、僕らが受けた教育は、輸入して日本風にアレンジされたものでした。一方で、それで役立つものもたくさんあったのです。

演劇史的にたどれば、新劇の成熟から、小劇場・アンダーグラウンド運動を僕らが担ってやってきた。そこから商業演劇の世界へ、さらに商業演劇とも何ともつかない形態の演劇の中に、僕自身の現在があるわけです。

その経験を若い世代に伝え、広げて、共に討議をしたり仕事をしながら、その価値を共有し、体験してもらう必要があるように思うのです。

いまの若い世代は、テレビや映像の感覚で育っているため、物事を論理的構造に置き換えてみるということをしません。

僕らは新劇から出て、ヨーロッパのコピー的演劇に激しい違和感を持っている。そして、それを乗り越える方法として、日本の演劇や日本の前近代の演劇についてもたくさん勉強してきた。そういう経路を、若い世代に勉強してもらい、それを手渡す時期に来ていると、僕は感じています。

例えばセリフ1つとっても、平板な言い方でなく、言葉の頭の部分と語尾が明確に相手に届くように、人間として自己主張するような表現をしてほしい。そうした戯曲の読み方、その背景にある世界、演劇史の中での位置付けや、基本的な演劇の系譜などについても、僕が学んできたものをすべて、彼らに受け渡したいと思っている。

いま僕らができることは、若い世代との間に、そうした創造的な討議や実験できる場を用意していくこと。それを発展させながら考える場所として、劇場というスペースを確保すること。

劇場における時間と空間を確保しつつ、若い世代と一緒に、新しく優れた演劇の理念を探りながら、発見するという希望を残して、次代につないでいくことでしょう。

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