【全文公開】40代、夫が突然がんになった...置き去りにされた「リタイヤ後の北海道一周」の約束(連載第1話)
2026年02月12日 公開
写真:キャンプ場に向かう道中のひまわり畑にて。撮影する私と愛犬(先代犬)を掲げる役の夫<2017.07>
日本人の死因として最も多い、がん。日本人が一生のうちにがんと診断される確率は2人に1人というデータもあるほど、すべての人にとって他人事といえない病気です。
ライターとして活動する柴山ミカさんは、3年ほど前に夫をがんで亡くされました。罹患されたのは働き盛りの40代の頃だったそう。がん患者の家族が抱える問題は、家族によってさまざま。悩んでいる間も病状は変化し、急な決断を迫られることもあります。
連載『夫を失うということ』では、柴山さんが夫と歩んだ闘病の日々を、ご自身の視点から語っていただきます。いつ、どんな形で訪れるかわからない配偶者の死について、考えるきっかけを与えてくれます。
在宅医療は始まったばかりなのに
2021年8月7日。夫が退院して4日目は立秋だった。「暦の上では」と言われても、小学生の夏休みは序盤だし、大きな公園が近いせいか蝉の大合唱は日々続く。秋なんてまだ程遠い、そんな日だったはずだ。けれど、今となっては、その日の空模様も、暑さがどの程度だったのかも、全く思い出せない。
その夜、夫は自宅で息を引き取った。もう少しで日付が変わろうとしている時刻、看取ったのは私ひとりだった。死亡診断書にその時間が記されるのを見て「ああ、もうちょっとで8月8日だったね。そっちの方が覚えやすかったかなあ。いや、でも死んだ日が末広がりのゾロ目って言われても困るか......」なんて、どうでもいい独り言が頭の中を駆けめぐっていたくらい、私はなんだか変だった。
在宅医療が始まり、それはまだまだ続くと勝手に思い込んでいた。家に帰る=病院ではもうできることはない......なのに。私は、終末期という切迫感がないまま、夫を自宅に迎えていたのだと思い知る。
それから荼毘に付すまで4日間、夫は自宅にいた。それは最後の退院から亡くなるまでと同じ日にちだけれど、空気感も時間的な感覚も全く違っていた。払いきれない重々しさと、時計の針が行ったり来たりしているのではないかという不思議な時間の感覚があったことだけはよく覚えている。
「もう乗り越えられたよね?」と言われている気がした
あれから3年と数カ月が経った。
今も、夫の死去や闘病にまつわる詳細を知る人はそう多くない。私がほとんど話してこなかったからだ。2021年の夏は、コロナウイルス感染症もまだ収束には至っておらず、それを理由に葬儀はごく身内だけで済ませた。
家族以外で知らせたのは夫の会社と、その時期たまたまメールをいただいた長年付き合いのある私の仕事関係の人に「返信ついでで恐縮ですが」と伝えた程度だった。以来、私からあえて連絡した人はほぼいない。
とにかくひっそりとしていたかった。コロナの流行を言い訳に「ご訪問はお控えを」とも伝えた。
ひたすら自分の心を守ることで、いっぱいいっぱいだったのだ。ただただ説明する自信がなかったのだ。いつ、なんで、そうなったのか、言葉をひとつ唇からこぼしたら、涙の栓も勝手に開いてしまうから。「いつまでも泣いてちゃねえ」そう思われるのが怖かった。ずっと平静を装っていたら、いつしか緊張すると左目の下がピクピク痙攣し始めるようになっていた。
喪失は深い深い谷底だ。その谷から這いずり出られた後も、崖っぷちに立っている感覚はずっと続く。なんとか少しでも前に進まないと、またいつ落ちるかわからない。「せめて腰を下ろせるスペースが確保できるまで、足を前に出さなければ」ちゃんとわかっている。でもできない、そんな感覚。
やがて少し動けるような感触が得られても、次は、ずっと濃霧で行く手が見えない山道を、勘でドライブしているような状態だった。なのに、「もう乗り越えられたよね?」他人の視線はそう語っているようにしか見えなかった。それが、丸3年が過ぎる頃まで続いていたのは、誰にも言えなかったことのひとつだ。
心に芽生えた変化
私はフリーランスで、出版物や広告関係の文章を書いたり企画提案をする仕事をしている。しかし、コロナ禍となり「私がコロナを媒介してしまったら、夫は命を落としかねない」そんな不安から、次第に仕事現場からも遠ざかっていた。
だから、夫の死後も復帰できるのかという不安もつきまとい、「全く違う仕事を探す必要があるのでは」とすら思っていたが、ありがたいことに、業界の先輩や仲間が新たな現場に繋いでくださったおかげで、今に至っている。
あるとき、新規案件の担当をしていただくことになった初対面の編集者さんとの会話の中で、簡単なプロフィールのひとつを話すように「夫と死別をして久しぶりの現場なんです」と、自分でも驚くほどさらっと伝えていた(それ以上を口にすると涙の栓が開くので、あくまでもさらっと)。
昔から知っている人には話せなかったのに、これは大きな変化だった。まずは「全く過去の自分を知らない人に話していったら、心持ちも何か変わるかもしれない」と思えたきっかけにもなった。
実は今回、その話を覚えてくださっていた方から「終末期医療の現状や、家族として闘病に携わってきた過程で秘めていた想いを書いてみませんか?」とお声かけいただいたのだった。驚きと同時に、まるで心の中を見透かされている気がした。
いつまで経っても晴れない心の霧は、書くことで少し薄めることができるのかもしれないと思い始めていたからだ。でもそれは、SNSのような気軽さではなく、本気で腰を据える覚悟も必要だった。少し悩んで、お引き受けすることにした。もちろん亡き夫にも報告済み、快諾してくれたと信じたい。
夫婦が何気なく描いた「いつか」
1997年に私たちは結婚。気が付けば約20年もの月日が流れ、実家で親と暮らしていた以上の時を共に過ごしていた。子どもは持たない選択をした。それだけに、二人で一緒に生きるのが当然に思っていたところもあった。「どっちが先に逝くのかねえ」と、減らず口を叩きながら笑っている爺婆になるのだろうと。
「いつかキャンプ道具を車に積んで北海道を一周したいなあ。そうそう、あと、実家にいたようなおっきな犬ともまた暮らしたい。リタイヤしたら可能かもね。まあ先立つものも必要だけど(笑)」
休暇の第一選択肢は、愛犬を伴っていけるキャンプだった。今までは2泊3日がせいぜいだったから、「いつかは......」との思いがあったのは確かだ。でも、実際にこんな会話を交わしたのか、私の妄想だったのかは、今となっては確認のしようもない。
夫がある症状で治療を受ける中で突然、癌が見つかったと告知されたのは、まもなく50代になり、あと10年もすればひと区切りのときがやってくる......そんな、次のフェーズが視野に入ろうしていた頃だった。
「それ」は突然やってきた。そして容赦がない。「ちょっと待って」はきかないのだ。心の準備なんてできようもない。そして、やがて「いつか」はもうやって来ないのだと思い知ることになる。
死を語ることは簡単ではない
あるとき、仕事で訪れた箱根で登山鉄道に乗った。列車がスイッチバック*をしながら上へと登っていく。「ああ、こんな感じで上まで行けると思ってたんだよな」その風景が、私たちの最後の10年と重なった。
時に停まったり、ちょっと後退しながらも、ジグザグでも確実に上に向かって登っているはずだった。夫は治療を続けながら、相変わらずワーカホリック気味に仕事をして、ときには休暇も楽しんで......。
治癒とまではいかずとも、あわよくば寛解(がん症状が消失)や、病変を抱えながらでも寿命と呼ばれるような年齢まで、一緒に笑いながら生きていける気がしていた。発症から5年を超えたあたりで「なんか、いけるんじゃない?」と楽観的になっていたのも事実だ(それともそれは私だけだったのか)。
死を語ることは簡単ではない。けれど、一番大切な人が命尽きる瞬間に立ち会った経験を通して、医療の現実や仕事と病の共存、共に向き合う伴侶としての関わりなど、できるだけ客観的な視点を交えながら、東京の片隅で起こったある小さな物語を書き記せたら。そして、遺された者の想いも一緒に......。皆さんの「自分ごと」に変換して読んでいただけると幸いに思う。
*スイッチバック:急勾配を登り降りする列車のために、ジグザグに線路を配置する仕組みのこと。少し登っては一旦停止して後退したり反転したりしながら山上の目的地を目指す。箱根登山鉄道などが有名。







