
15歳でのプロ宣言からわずか2年で車いすテニスの四大大会で優勝。パリ・パラリンピックでも金メダルを獲得し、世界ランキング1位の座に輝いた車いすテニス界のニューヒーロー、小田凱人(おだ・ときと)選手。幼少期に車いすテニスに出会ってから、練習に打ち込み、自分のプレースタイルを貫いてきたそうです。書籍『夢を持つ、夢中になる、あとは かなえるだけ 車いすテニス小田凱人』よりエピソードを紹介します。
※本稿は、小田凱人監修,秋山英宏著『夢を持つ、夢中になる、あとは かなえるだけ 車いすテニス小田凱人』(Gakken)を一部抜粋・編集したものです。
初めての試合は完敗
岐阜車いすテニスクラブでの練習に通うには、車で片道30分ほどかかります。送りむかえは、おもにお母さんが担当で、ときどきお父さんもしてくれました。
両親は凱人をクラブに送りとどけると、そのまま練習が終わるまで待っていてくれました。車に乗っている間も、話題はテニスのことばかり。それは凱人にとっても両親にとっても楽しい時間でした。
一球でも多くボールを打ちたい凱人は、クラブでの練習のほかに、近くの公園でも練習しました。また、中学生になると、テニスコートを借りて練習することもありました。
初めて試合に出たのは凱人が10歳のころです。一所けん命に練習してきたので、凱人も、お父さんも、「いける」と思っていましたが、結果は0―6の完敗でした。くやしさを味わった凱人は、さらに練習に力を入れるようになりました。
試合であちこち遠せいするようになると、それが家族旅行の代わりになりました。お父さんは、たくさんしゅ味を持っていましたから、それまで、小田家のレジャーといえば、お父さんが好きなことを家族みんなで楽しむことでした。ところが、凱人がテニスの練習や試合でいそがしくなると、家族はテニスを中心に行動するようになっていきました。
今は勝てなくても、いいと思ったことをやる
お父さんはふだんから、口ぐせのように「お前ならできる」といって、はげましてくれました。ただ、試合で負けたときなどに、「なんで、できないのか」ときびしい言葉をかけられることもありました。凱人は、それをすなおに聞いていました。
(きびしくいわれるのは、期待してくれているからだ。)
お父さんが、自分のことを思っていってくれていることが、凱人にはわかりました。だから、きびしくいわれても、受け入れることができました。
ただ、お父さんのアドバイスを聞いても、すなおにしたがわないこともありました。凱人は、自分のやりたいやり方で、テニスをしていました。そうして、勝ったり負けたりが続いていました。
そのようすを見て、お父さんは(何をいっても、この子は聞かないな)と気がつきました。そして、凱人 に、こういいました。
「好きにやればいい。勝ち負けなんか関係なく。自分が好きなことをやって、勝てれば、それでいいんじゃないか。」
がん固に自分のやり方かたをつらぬく凱人に、お父さんも根負けしたのです。凱人は、お母さんには、自分の気持ちを明かしました。
「次のことを考えて、チャレンジしている部分があるんだよ。練習ではできない、試合の中でやらないとわからないことだから、試合でチャレンジしているんだ。」
今は勝ったり負けたりでも、それは大事ではない。将来、もっと強くなるためには、今、こういうプレーを試合でやってみる必要がある――そこまではっきりとした形ではありませんでしたが、凱人の頭にあったのは、そんな考えでした。
凱人は、自分に必要だと思うことをやり続けました。それは今でも変わりません。どんな試合でも、こうと決めたら、失敗しても、そのプレーをやり続けます。そんな凱人を見て、お父さんは思うのです。
「こんな大きな大会で、チャレンジしている。あいつのやりたいスタイルをつらぬいている。すごくいいことだな。」
今の凱人のテニスは超こうげきがたです。得意の強いサーブとストロークで、ぐいぐいおしていきます。ライジングショットといって、バウンドした直後のボールを打つこともあります。そうして、まるでたっ球のような、すばやいこうげきをしかけるのです。
さらに、後ろで打ち合うだけでなく、積極的にネットにつめて、ボレー(ノーバウンドで打つ、こうげき的なショット)で決める場面も多いのです。
(これが自分のやり方なんだ。)
一度決めたら、だれがなんといおうとやり続ける。そんな気持ちで、みがきあげた、凱人の「スタイル」です。