
作家・岸田奈美さんの母・ひろ実さんは、感染性心内膜炎の大手術が無事成功。奈美さんがホッとしたのもつかの間、母の3か月にわたる入院生活が始まり、母不在の実家はカオス。犬2匹は手に負えず、認知症の祖母はタイムスリップする毎日。特に、犬・クーはまるでプリズン・ブレイクのように壁を掘り脱出をはかろうとしていた。もうあかん...こんな日常に、奈美さんはどう立ち向かうのか?
※本稿は、岸田奈美著『もうあかんわ日記』(小学館文庫)から一部抜粋・編集したものです。
まるで犬に住み着かれてる?
うちには、犬が2匹いる。どちらもトイプードルだ。
1匹は梅吉という。社会人になったわたしが手に入れたばかりの初任給にホクホクしていたとき、ペットショップで出会ってしまった。生まれたての小さな子犬ばかりのその店で、梅吉はもう立派な成犬になっていた。
売れ残っていた原因はすぐわかった。トイプードルにしては図体がでかく、ずっとしっぽを追っかけまわして足がもつれて転び続け、怒って吠えるという、狂おしいほどアホな犬だった。アホの犬がニタァと笑い、ぎゃんぎゃん吠えて、こちらを見ていた。
このまま売れなかったら、この子はどうなってしまうんだろう。隣にいた母と顔を見合わせ、2時間後には、まんまとわたしは梅吉を抱えて車に乗っていた。
それだけならよくある話だが、なんと、2匹目も似たような経緯でやって来た。クーという。
クウクウ鳴くからとか、黒色だからとか、いろんな説はあるけれども、真意はわからない。名前をつけたのはわたしたちではないからだ。
クーは、母の知人が飼った犬だった。飼ってから「大変すぎてとても飼えない」とのことで、母はうちにはもう梅吉がいるからと断ったが、知人はほかにあたれる人もおらず、このままでは捨てられてしまうということで、「じゃあ一度、預かるだけなら」と、お人好しを炸裂させ、まんまと連れて帰ってきてしまった。
以降、クーを返そうとしても、なんやかんやあり、返せなくなってしまった。帰る先を失ったクーは、なんとなく、うちの子になった。
クーも、大変な犬だった。
いったいなにがあったのか、それともなかったのかは知らないが、とにかく人間が苦手で。普段はソファの下にもぐって暮らしており、日中はほとんど姿を見せない。夜中になると、のっそりと這い出て、エサを食べてまた姿を消す。冬眠中のクマか。
こうして、こちらに気づいていないクーを一瞬だけ見ることができる。クマか。
クーの姿を見るには、部屋を出て行ったふりをして、物陰に身をひそめて息を殺すしかない。
声をかけると、一目散に逃げていくし、なでようとすると嚙んでくる。ハッと気がついたら、そのへんに爆速で散らかされた、おしっことうんこだけがある。まだ、あたたかい。
犬を飼っているというより、犬に住み着かれてるといった方が近い。借りぐらしのクーちゃんだ。
やばくなったばあちゃんと犬 指数関数的に状況が悪化
犬2匹だけならまだ、それなりに生活はできていたのだが。
ここに「やばくなったばあちゃん」が加わると、加速度的にやばくなった。
ばあちゃんは、タイムスリップしている。うちの梅吉とクーのことを「チビ」とか「メグ」とか呼んだりする。メグはばあちゃんが昔むかし、長屋で飼っていたらしい犬だ。昭和の下町の雑種犬だ。
昭和の下町の雑種犬なので、ごはんは人間の食べ残しで、丸裸で外につながれていた。まあ、当時生まれてもないわたしが、その飼い方についてとやかく言うまい。そういう時代もあったのだろう。
何度「絶対にダメ! やめて!」とわたしが怒っても、すぐに忘れるばあちゃんは、自分の食べ残しを2匹にあげてしまう。犬の体には、よくないのに。
吠えると、ばあちゃんはクイックルワイパーを振り上げ、バンバンと床に叩きつけて音を出し、威嚇しながら追いまわす。犬はおびえて、散り散りになる。
わたしが見張っているうちは、羽交い締めにしてでもやめさせるが、仕事やお風呂でちょっと目を離すと、悪夢は繰り返されている。ばあちゃんは、「犬なんて家に置くからあかん」と、理不尽に機嫌が悪い。これはつらい。
しかたなく、梅吉をわたしの部屋でかくまい、クーは落ち着くソファの下で過ごさせることにした。
最初はおびえていた彼らも、ある日ついに、堪忍袋の緒が切れた。クイックルワイパーを持つばあちゃんにおびえず突撃し、ばあちゃんの尻をガブリと嚙んだ。
「あいたぁっ!」
ばあちゃんの声が部屋に響いた。病院騒ぎかと一瞬青ざめたが、梅吉もクーもよくできた犬だった。怪我をしない程度にガブリと嚙んでいた。ばあちゃんのクイックルワイパーが、鉄槌のごとくまた振り下ろされる。
老人の動きなど見切ったとばかりに、2匹はサッとよけて、またばあちゃんの尻にガブリした。生身の足でも腕でもなく、尻だけをめがけて。
その鮮やかさに感激して、わたしは「よしいけっ! もっといけ! そこだ! 尻を狙え!」と、手に汗をにぎって犬を応援していた。異常な光景である。
ばあちゃんは1時間で、3回も尻をガブリされた。
ほとんどすべての記憶が1時間もあればオールリセットされるばあちゃんだが、嚙まれた痛みは本能の危機として覚えているのか、ばあちゃんがクイックルワイパーで犬を追いまわすことはとりあえずなくなった。
しかし、2匹のばあちゃん嫌いは止まらない。ばあちゃんが毎日横になって寝転んでいるソファに、重点的におしっこをするようになった。生き物のもてる能力をすべて投じた、ごっつい攻撃だ。
わたしもいつか気に入らない人に出会ったら、そうしようと思う。
ところがばあちゃんはおしっこの色にもにおいにも気づかず、自分もソファにコーヒーやらお茶やらをこぼしまくり、こぼしたことすら忘れてるのか、めんどくさいのか、そのまま放置して寝るので、魔界のようなソファになった。
ソファにはばあちゃんの手によってさまざまな"ごまかし布"がかけられているが、この下はまぎれもなく魔界だ。わたしが実家で暮らすようになって、さすがにこのソファの異臭に気づいたので、ばあちゃんを説得し、ソファごと捨てることにした。
カビだらけの腐海ソファー
まずは、布をとって、背もたれのクッションをとって......。
「オギャァーッ」
叫んでしまった。いろんな液体を放置していたので、ソファの座面にはカビがびっしり、腐海のごとく根をはって栄えており、見渡すかぎりまっしろだった。新しい生命がここで芽吹いてしまう。さらに、カビだらけの、ソファの背もたれと座面の間から、いろんなものの破片がのぞいている。
どうやら、ばあちゃんが郵便物や雑誌をソファで読んだあと、捨てるのを横着して、ソファの背もたれのほっそい隙間にねじ込んでいたことが発覚した。
こんまりもびっくりの、片づけメソッド。
ときめかないものは、亜空間にねじ込んで、なかったことにしましょう。
意味不明の食材と保冷剤がまるごと入ったグニョグニョする袋も、亜空間にねじ込めば、なかったことになる。
そんなわけあるか。なんでここで寝れるねん。信じられん。
母に報告すると、「わたしが車いすに乗ってるから、ソファの背もたれまで近づけんくて、気づかんかったわ。ごめんね」と落ち込んでいたので、このソファは亜空間からマンションのゴミ捨て場へと転送し、岸田家の歴史から抹消することにした。
「クーちゃん、ごめんな。このソファ、気に入ってたのに」
わたしはソファの下をねぐらにしていたクーちゃんに謝りながら、弟とソファを持ち上げた。十数年ぶりに見る床面と壁面が、そこに現れた。
「......えっ」
クーちゃんが! 壁に! 穴を! 掘ってる!
ソファで隠れて見えなくなっていた壁面はガリガリと削られ、その中心には、こぶし大ほどの穴があいていた。薄皮1枚で、ベランダへ貫通しようとしている。
愛犬にプリズン・ブレイクされていたことに、言葉を失った。
わかるだろうか。好きでソファの下にもぐってる犬と仲良く暮らしているつもりだったのはわたしだけで、犬はマイケル・スコフィールドと同じく、意地でもこの家を脱出しようとしていたのだ。まさか家族から、マイケル・スコフィールドを輩出するとは思わなかった。
ばあちゃんはゲラゲラと笑って、「犬も家から逃げたい言うとるわ」と他人事のように言っていたので、今度はわたしが尻をガブリしてやろうかと思った。
この脱獄の形跡、修復にいくらかかるんだろう。もう、あかんわ。
わたしと弟はうつむきながら、黙ってソファを背中にかついでゴミ捨て場に向かったため、キリストがゴルゴタの丘へ歩いていくような絵図になった。悲しみが深すぎる。
ソファがなくなったクーは、普段は布をかぶせたケージのなかで休んでいるが、ちょっとずつ外に慣れて、机の下やいすの下まで出てくるようになったので、元気な姿を見られるのは、ちょっとうれしい。