作家・岸田奈美さんは、はじめて上梓した本の印税と、これまで働いてきたベンチャー企業での貯金をすべてはたいて外車・ボルボを買いました。でも、岸田さん自身は自動車免許をもっていません。ではだれのために?
車いすユーザーの母のためといいます。それも、亡き父が愛したボルボを。インターネットメディア協会が主催する「Internet Media Awards」で、グランプリと部門賞を授賞したエッセイを紹介します。
※本稿は、岸田奈美著『傘のさし方がわからない』(小学館)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
全財産を使って外車を買った
全財産の内訳は、大学生のときからベンチャー企業で10年間働いて、したたり落ちるスズメの涙をためこんだお金と。こんなもん、もう一生書けへんわと思うくらいの熱量を打ちこんで書いた本『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』の印税だ。
それらが一瞬にして、なくなった。外車を買ったからだ。運転免許もないのに。
「調子乗ってんなよ、おまえ」と思った人も、「どうせここから"わたしのマネをすれば誰でも秒速で車が買えるんですよ"ってやばいビジネスに誘うんだろ」と思った人も、一旦、聞いてほしい。わたしはわたしなりに、誇らしい使い方をしたのだ。
そもそも、誰のために外車を買ったかというと。うちの母・岸田ひろ実のためだ。
13年前に大動脈解離
というやばい病気にかかり、『医龍
』みたいなやばい手術の後遺症で、下半身麻痺になった。足がまったく動かないこと以外は、二度見されるほど元気だ。しかし、そんな母にも「歩けないならもう死にたい」と、病室のベッドでひたすら泣いている日々があった。わたしもさめざめ泣いた。
そんな母を元気にさせたのが「手だけで運転できる車」の存在だった。はじめて病院の作療法士さんからその存在を明かされたときは、そんな車があったんかいな、とふたりで顔を見あわせた。母は永遠のように長いローンを組んで、ホンダの赤いフィットを手に入れた。ブレーキとアクセルを、足でふむんじゃなく、手で操作できるように改造してもらって。
車いすをひとりでもち上げ、後部座席に放りこむというゴリラのような所業を1か月練習したのち、母はどこでもビュンビュンと車を走らせるようになった。
だれかに手伝ってもらってばかりの母が、わたしや弟を学校や職場へ車で送ってくれたとき「ようやくわたしも、家族の役に立てた」とうれしそうだった。
たわむれに、ドヤ顔で運転する母の映像を撮ってSNSにアップロードしてみたところ、なぜかまたたく間に中国やタイやミャンマーで話題になった。中国では数年前に障害者が車の教習所に通えるようになったばかりだし、バリアフリーの整備が日本より50年以上おくれているといわれているミャンマーでは障害者が車を運転するなんてまだ夢の夢という状況。
母の動画にそえられた見慣れぬ言語を訳してみると「こんな夢のような話があるなんて」「いつか日本に行って、車を運転してみたい」と、感動している障害者の人々のコメントであふれていた。
一生に一度くらい、乗りたい車に乗りたい
さて。車というのは、10 年も乗っていれば、どこかしらガタが出る。
「乗りかえる車をそろそろ探さんとね」母がいった。
「またフィットにする?」
「どうせやったら一生に一度くらい、乗りたい車に乗りたいなあ」
乗りたい車に、乗りたい。車いすに乗っている母と、知的障害のある弟がいるわが家は、他の家族より「選択肢の少ない生活」をしてきたように思う。
行けるお店も、通える学校も、着られる服も、選択肢が少ない。車もそうだ。
フルタイムで働けない母、福祉の作業所に通っていて賃金が昼食費を下まわっている弟、年金生活の祖母、そしてわたしで構成される岸田家は決して裕福ではない。改造ができ、駐車場におさまり、車いすを積みこめ、乗り移りやすい高さを兼ね備えた、ただでさえ少ない車種たちのなかから、一番安い車を選んできた。乗りたい車ではなく、乗れる車を。
「乗りたい車といえば、あれしかないねえ」
わたしと母の脳裏に浮かぶのは、同じ車だった。死んだ父・岸田浩二がこよなく愛した、ボルボだ。
ここに一枚の写真がある。モスグリーンのボルボ940のとなりに、ドヤ顔の父と、寄りそうように母がまだ自分の足で立っている。20数年前の風景だ。ボルボは父のすべてだった。古いアパートの歴史や郷愁をうまく残しながら、リノベーションをするのが父の誇り高き仕事だった。ドイツや北欧の建築にほれこんでいた。ボルボも、北欧生まれの外車だ。
阪神・淡路大震災で、みんなの家や車がバッキバキにこわれていくのを見て「いざというときも、クソ頑丈で、乗っている家族を守れる車を選んだ」と、業界では戦車にたとえられるクソ頑丈なボルボに全信頼を寄せていた。
フルフラットになるシートに弟とわたしを放りこみ、神戸の田舎町からディズニーランドまで爆走してくれたこともあった。「絶対にいらんて、犬が顔でも出したらかっこつくけど、うち犬おらんし」と母から猛反対されながらも父が別注で取りつけたサンルーフは、やはり一度も開けることがなかったけど。
そんな父は15年前に、心筋梗塞で突然死した。父の愛がこもったものを、そばに置いておきたかった。人生に迷ったとき、父が愛したものを見つめれば、背中を押されるような気がするから。
しかしわたしたちは、ボルボを手放した。
父が設立した建築会社をたたむための費用。高校受験をひかえたわたし、障害のある弟、専業主婦でアルバイトの働き口しか見つからなかった母の生活費。
保険金でなんとか屋根の下で暮らしてはいけるが、余裕なんてない。外車を車検に出し、維持するだけのお金がなかった。ボルボより、優先すべき生活があった。だから手放した。仕方がないことだ。
だけど、ボルボを下取りに送り出すとき。父との大切なつながりすら、お金にかえてしまった気がして、苦しかった。
「いつかまた、ボルボに乗れるようになろうね」母とわたしは、約束した。
いつか立派な大人になって、お金をかせいで、ボルボを取りもどすことを。ところが、それからすぐ今度は母が病気でブッたおれたので、正直いってボルボどころではなく、生きているだけで精一杯の日々が続いた。
「それでも生きているうちに、1回は乗れたらいいな」とぼんやり思っていた。宝くじとかうっかり当たらんかな、って。ボルボV40が、生産中止になったと聞くまでは。