
「人を見た目で判断してはいけない」とよくいいますが、あなたは人を判断する際に、その人の内面や背後にある事情など、どこまで想像しているでしょうか?経営者やチームのリーダーなど上に立つ人ほど、自分の価値判断を消してフラットな状態で物事を見ることが重要だといいます。
荒木電通株式会社代表取締役の荒木俊氏に話を聞きました。
※本稿は、荒木俊著『失敗したらガッツポーズ』(アスコム)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
人の良し悪しは、外見ではなく行動で判断する
私はその人の外見(服装、持ち物、装飾品など)だけではなく、他人に対してどういうふるまいをしているかという行動の部分を見ています。
以前、お金持ちの経営者が集まるチャリティーイベントがあり、その運営をお手伝いする形でうちの幹部スタッフと一緒に駐車場の交通整理をしたことがありました。そのときにスタッフに話したのが、まさにこのことでした。
私はスタッフにこう質問しました。
「この中には、とても優秀そうな人もいるし、イケメンや美人もいるし、超高級車に乗っている人もいれば、愛人らしき若い女の子を連れている人もいる。〇〇さんはどこをどう見て、『ああ、この人は良いなあ』と思う?」
そのスタッフは突然の質問にうまく答えられなかったのですが、私が伝えたかったのは、こういうことです。
「我々が交通整理をしているときに、ちょこっとでも頭を下げてくれたり、『ありがとう』と言ってくれたりした人は、いいなあと思うし、ものすごく苦労して上がってきた人間なのかなと思うよ。外れているかもしれないけどね。逆に、偉そうな態度が表に出ている人たちは、お金持ちで能力がすごく高くても、階段を一歩ずつ上ってきた人ではないのかな。これもわからないけどね」
私がそのスタッフに対してこんな話をしたのは、会社を経営していく苦しみは、結局、「人」に関する苦しみだからです。
経営をしていればどこかで業績がガタッと落ちたり、失敗したりするときがありますが、そのときに、相手に敬意を払えず、人間関係を大切にできない経営者は、そこから這い上がるのが、より大変になります。
「その人の生き方なので、何をどう選んでもいいけれど、人とモノとお金のどれを重視するかで、這い上がれるかどうかが変わってくるよ」
幹部スタッフである彼には、このことを伝えておきたかったのです。
その人の背後にある事情や長所を想像する
ただし、行動だけで相手を判断するのも違うと思っています。
たとえば、私が人前で話すときに感じるのですが、聴衆の中には私の話のどのポイントでも大きくうなずきながら聴いてくれる人がいます。
一方で、ずっと無表情で聴いていて、どこかのタイミングで深くうなずく人もいます。
話す側としては、前者はとても助かる存在です。でも、本当に感心して聞いているのかはわかりません。逆に後者は、とてもやりづらい存在ですが、確実に感心してくれています。
どちらが本当に良い聴衆かは、簡単に決められません。素直に謝れる人と謝れない人の場合もそうです。
謝れる人は、素直ですが反射的に反応できる人でもあります。悪気なく、社交辞令的に謝れる。可愛く、「テヘッ、ペロッ!」と舌を出せるイメージです。
でも、謝れない人は不器用ですから、心の中で反省はしていてもそれをうまく表に出せないのかもしれません。謝れるから良い人で、謝れないからダメな人だと決めつけるのは拙速に過ぎます。
こんな話もあります。
知人から聞いた話ですが、彼が高校生のときに、同じクラスにちょっと個性的で、仲間内から孤立している感じの同級生がいました。いじめられているのではなく、自らの意思で集団行動には加わろうとしないのだそうです。
「ちょっと変わったやつだな」
「なんで、あいつは自分たちから遠ざかろうとするのだろうか」
そう思って、知人はその同級生に対して、あまり良い感情を持っていませんでした。
ある日、国語の課題でエッセイのようなものを書いたときに、その同級生は「人にはそれぞれ理由がある」という作品を発表したのですが、私の知人はそれを読んで、反省したというか大きな気づきがあったと言います。
そのエッセイには、個性的な同級生がなぜ周囲と積極的に交流しないのかということについて、その理由がうかがえる内容がつづられていました。
どうも、過去に集団内の友人関係で裏切られたことがあり、他人には期待しないし、「自分の身は自分で守る」というスタンスで生きてきたようなのです。
また別の生徒からの情報によると、その同級生はこんなことも言っていたそうです。「人は綺麗事を言うが、いざというときには助けてくれなかった」と。
そんな彼の事情を理解しようともせず、「何をするにもみんなで」といった自分たちの価値観を一方的に押し付けるのは間違いだった―と私の知人は気づき、そのときから人の見方が変わったというのです。
私も、同じ考えです。
常に、相手の背後にある事情や長所を想像するようにしています。
たとえば、こんな感じです。
「この人がこういう態度をとるのは、なぜなのだろう? 新卒で入った会社がこういう文化だっただけであって、本人にはまったく悪気はないのかもしれないな」
「この人が素直に謝れないのは、うまく表面に出せないだけで、心の中では悪いと思っていて、謝罪の言葉が喉まで出かかっているのかもしれない」
「なぜこの人はこんなに誰にでも優しく、敬意を払えるのだろう? 素敵なご家族なんだろうな」
この想像は外れてもいいのです。
目的は、その人を「見えるものだけ」で判断しないためであり、相手の事情(理由)を推測することで、自分のコミュニケーションの改善点も探そうとしているからです。
大事なのは、その人に対して、もう一歩奥まで深く考える癖をつけることです。
その人の家族のことまで想像する
背後といえば、私は相手の家族のことまでいつも考えてしまいます。
「この人が元気なく帰ったら、家族はどう思うかな?」
「(良いときも悪いときも)この人は家族の前でどんな顔をするのかな?」
私のこんな発想は、実は子供の頃から出来上がっていたと思います。たとえば、中学のサッカー部では、キャプテンとして常にチーム全体のこと、試合に出ていないサブメンバーのことまで考えてプレーするように育てられました。
ここまでなら普通のキャプテンでしょうが、私の場合は、グラウンドの周りで観戦している仲間の家族に対してまで、「この人たちに喜びと感動を与えてあげたい」と意識していました。試合中にそんなことまで考えている中学生は珍しいかもしれませんね。
以前にも、会社でこんなことがありました。
グループ全体の会議を終日開いていたところ、終了が17時を過ぎてしまいました。そこから2時間かけて帰宅する人もいるのですが、家でお腹を空かせて待っている家族のことが浮かんで、「今から帰って夕食をつくるのは大変だろうから......」と、お弁当代を渡すことにしたのです。
自画自賛になってしまいましたが......、そういう発想が常に降りてくるのは、やはり自分にとって「家族を笑顔にするため」というのが原点だからでしょう。
ちなみに当社では、「親孝行手当」という制度をつくっています。月に数千円ですが、ご両親でもいいし、おじいちゃんおばあちゃんでもいいので、一緒に食事をしてほしいという意味で一律に支給しています。
自分の価値判断はすべて消し去った上で話を聞く
会話の中身についていえば、私が心がけているのは、自分の価値判断をすべて消した上で、フラットな状態で相手の話を聞くことです。
たとえば、スタッフからの意見や提案に対して、自分の経験から頭ごなしに「良い・悪い」を決めつけません。
以前、スタッフと話しているときに、自分の経験と照らし合わせて「それは違う!」という想いが出てしまい、反省したことがありました。
それは、2つの意味で問題があるのです。
1つは、スタッフが委縮してしまい、意見を言わなくなること。
もう1つは、創業以来、アイデアは私の引き出しから出してきたので、スタッフがいざ困ったときに自らアイデアを出せなくなることです。アイデアを絞り出す経験をしていないから、できなくなってしまうのです。
これではダメだと気づいてから、私は一切、自分の価値判断を消した上で、まずは話を聞くようになりました。