団体客頼みの時代が終わり、個人客重視の高品質な旅館へと舵を切った伊豆の老舗旅館。そこで不可欠だったのが、"仲居の完全担当制"を支える新卒人材の確保と育成だった。なぜ旅館業界が今、新卒採用に本気で取り組むべきなのか――現場と経営の最前線に立つオーナーが、その理由と覚悟を語る。
"まっさら"の人材こそが旅館文化を継承する

伊豆の老舗旅館として、私たちは創業以来、多くのお客様を迎えてきました。しかし、バブル崩壊を機に、団体客中心の宿のあり方は限界を迎えました。
そこから私たちは、"個人客中心の高品質な宿"への転換を図り、そして、その中核となる「仲居の完全担当制」という旅館文化を守るために、2000年から大卒新卒者の採用を始めました。
以来、25年近く新卒採用を続けていますが、それは単なる人手不足対策ではなく、旅館の未来を切り拓くための戦略的な選択でした。
私たちが新卒採用を始めた最大の理由は、「仲居の完全担当制」を守り抜くためです。
お出迎えから始まって、チェックインしてからチェックアウトするまでの間、そして最後のお見送りまで、同じ仲居が一貫してお客様を担当するというこの接客スタイルは、昔ながらの旅館の本質を体現するものです。けれども、この仕組みを機能させるには、高い接客力と状況判断力、そして何より強い責任感が求められます。
そこで私たちは、旅館の伝統的スタイルである、夕食も朝食もお部屋出しで、しかもすべての料理を"完全一品出し"で提供していくことに決めました。
つまり、お客様の食事の進み具合に合わせて、温かいものは温かく、冷たいものは冷たくお出しし、その場で仲居がその料理の説明をしながら提供するという手間のかかる方法です。これを成立させるには、オペレーションを熟知し、柔軟に動ける仲居が必要不可欠でした。
当時、旅館に長く勤めていた60代の仲居さんたちに新しい接客スタイルを一から学んでもらうのは難しく、それならば新卒をゼロから育てようと考えました。なにより新卒の"まっさら"な感性こそが、旅館文化を素直に吸収し、私たちの理想の接客を一から学んでくれる存在だと確信したのです。
失敗から始まった採用改革
最初に採用した3人の新卒社員は、残念ながら1年以内に全員が退職しました。
最大の理由は、既存のスタッフとの摩擦でした。新しいことに前向きだった新卒たちは、顧客カルテの導入など、より良い接客を目指していましたが、既存のスタッフからは「余計なことをするな、そんなことをされたら自分たちもやらなければならなくなる」と反発されたのです。
誰もがそうですが、年を取れば取るほど、仕事の仕方を劇的に180度変えるなんてことは絶対的にしたくない。慣れたやり方を続けたい。だから60代の既存の社員たちは、社長の言うことを聞いて新しいことに率先して取り組む新卒の社員たちが邪魔だったのです。
そこで、新卒社員たちが退職する際、私は1時間以上のヒアリングを行い、問題点を洗い出しました。彼女たちの言葉はすべて正論でした。若い人材が定着し、成長できる環境が整っていなかったのです。だからこそ私は、翌年の新卒採用に向けて、労働環境や研修体制を一から見直し、改善に取り組みました。
その結果、会社の受け入れ環境はまだまだ不十分でしたが、翌年入社した3人の新卒社員も、その次の年に入った5人も残ってくれました。最初に残ってくれた3人にとっては、後輩社員が入ってくることが嬉しく、嬉しいから先輩として教育をして一人前にしてあげたいと思っていたようです。
後輩の子たちにも続けてもらい、年寄りが大半を占めている仲居のチームを少しでも変えたい。そのためには後輩を大切にしなければという思いが強かったんです。
そのような好循環が生まれ、定着率はほぼ100%となり、わずか4年後には仲居の9割以上が大卒新卒者四大卒という構成になりました。
涙ながらに自身の経験を語る若手の姿に心を動かされる
旅館の接客スタイルは、ホテルとはまったく異なります。
しかし大学の観光学部でもホテル専門学校でも、ホテル経営学を教える講義はあっても、旅館に関する講義はほとんどありません。そのため学生たちの頭の中には、"旅館"という選択肢自体が存在していません。
そのため、旅館が大手の就職サイトに企業登録しても、学生は何の関心も持たない。あの有名ホテルに入りたい、あの外資系一流ホテルに入りたい、そういう学生しかいません。その牙城を崩さない限り、新卒の就活生が旅館には目を向けてくれません。旅館が新卒を採用するには、そこに大きなハードルがあります。
外資系ホテルを志望する学生たちに旅館の価値を伝えるためには、就活生向けの企業説明会で、ホテルとは違う旅館の"文化"をしっかりと説明する必要がある。そう考えた私は、合同企業説明会に自ら出向き、旅館の接客の奥深さや喜びを学生たちに伝えてきました。
そして4年目からは、実際に現場で働く若い仲居も同行するようになりました。社長の私よりも若いスタッフのほうが、学生さんも相談したいことや聞きたいことを気軽に聞くことができるからです。
それに、学生さんたちと年齢の近い人が、旅館での接客について、その喜びや感動を伝えるのが一番分かってもらいやすい。実際、涙ながらに自身の経験を語る若手の姿に多くの学生が心を動かされ、多くの就職希望者が応募してくるようになりました。
選考は人材の評価ではなく、人材育成の場
次は採用に向けての一次選考、二次選考、最終選考ですが、ここでは選考や評価だけでなく、この段階ですでに人材育成を始めています。
一次選考は浜の湯で実施しますが、交通費は支給しません。物見遊山ではなく、本気度の高いに学生にしか応募してもらいたくないからです。ここでは、旅館の施設を自分の目で見てもらい、若手スタッフの体験談を聞かせてリアルな職場を体感してもらいます。
二次選考と最終選考は東京で行います。二次選考では接客のドキュメンタリー映像を見た後、グループディスカッションで理解を深めます。最終選考では感動的な接客ストーリーを読んでもらい、感想を述べてもらいながらディスカッションをしていきます。
これら一次選考、二次選考、最終選考を通じて、うちの細かな接客の対応のあり方というものを随時教えていくということを行っているのです。
新卒採用後は、約1カ月にわたる厳しい研修が待っています。和室における立ち振る舞い、料理提供の作法、チェックインやお出迎えの対応まで、すべてを徹底的に反復練習します。途中には中間試験、最終試験もあり、それをクリアした者だけが現場に立てる仕組みです。
この1カ月間で同期社員との強い絆が育まれます。厳しい状況を共に乗り越える経験は、配属後もかけがえのない支えになります。そうしたつながりが離職率を下げ、結果的にサービスの質を安定させることにつながっているのです。
新卒採用こそ、旅館ブランドを守る鍵
今、全国の旅館はホテル化が進み、外資系企業の買収も加速しています。旅館の建物に泊まっても、中身はホテルというケースも珍しくなくなりました。しかし、それでは旅館業界の本質は失われてしまいます。
私たちは"旅館の文化"を守ることが、旅館業界の未来を守ることだと考えています。完全担当制、料理の一品出し、和室での丁寧なおもてなし。これらはホテルには真似のできない旅館だけの価値であり、日本にしかないブランドです。
だからこそ、その価値を伝え、受け継ぎ、進化させていく人材の育成が不可欠であり、新卒採用はそのための最善の手段なのです。
採用活動にかかるコストは年々増加しています。早期選考が一般化した今、旅館業界も早期選考のための予算を組んでスピード感を持って動かなければ、優秀な人材には出会えません。これは将来の黒字経営への"投資"だと私は考えています。
中小企業だからこそ、現場を知る経営者が前線に立ち、メッセージを発信していく必要があります。それが、日本の旅館文化を未来につなげていくために必要なことだと考えています。
最後に、浜の湯で仲居を務めるスタッフの声もご紹介しましょう。彼女たちがなぜ仲居になりたいと思うようになり、日々どのような思いで接客しているかが分かっていただけると思います。
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浜の湯で働き始めて8年目になる「麻衣」と申します。
私は学生時代の接客アルバイトがきっかけで、人と関わる仕事がしたいと思うようになりました。最初は「接客のプロ」としてホテル業界を目指していましたが、実際にインターンで経験する中で、私のやりたいのはもっと「お客様に寄り添う接客」だと気づいたんです。
そんなとき、合同企業説明会で浜の湯に出会いました。先輩方が自分の接客のやりがいや苦労を真剣に語る姿に心を打たれ、「ここなら私の理想の接客ができる」と確信しました。社長が自ら採用に関わり、一人ひとりと向き合ってくれる姿勢にも感動し、入社を決めました。
実際に仲居として働く中で「あなたに会いに来ました」と言ってくださるお客様の存在が、私の誇りであり、喜びです。今では、お客様に合わせて自分の接客スタイルを柔軟に変えられるようになりました。この力をさらに磨き、"理想の接客"を毎日体現できる仲居になりたいと思っています。
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