占領軍兵士を父に持つ孤児「GIベビー」は戦後どう生きた? 保護施設の記録から辿る
2025年08月28日 公開
聖母愛児園分園ファチマの聖母少年の町の子どもたち(昭和30年代)
横浜都市発展記念館では、2025年7月19日(土)から9月28日(日)まで、特別展「戦後80年 戦争の記憶―戦中・戦後を生きた横浜の人びと―」を開催中です。空襲被害や戦争による暮らしの変化、占領期における市民の姿などを、貴重な資料や証言を通じて紹介しています。
本稿では、占領軍の兵士と日本人女性の間に生まれた子どもたち、いわゆる「GIベビー」が置かれた戦後の境遇について取り上げた展示の一部と、研究員の西村健さんによる解説をご紹介いたします。
国内でもっとも多く「GIベビー」を保護した聖母愛児園

聖母愛児園の園児たち
多数の占領軍兵士が駐留していた戦後の横浜では、兵士と日本人女性との間に多くの子どもたちが生まれました。その中には望まれない妊娠の末に誕生した子も少なくなく、街中に遺棄され命を落とすケースや、兵士が母子を残して帰国したことで養育が困難となり、困窮の淵に立たされる子どもも多く存在したといいます。
そうした子どもたちを保護し、支援の手を差し伸べたのが「聖母愛児園」の人々です。昭和21年(1946年)に設立された同園は、カトリックの世界的組織「マリアの宣教者フランシスコ修道会」を母体とする社団法人大和奉仕会(現・社会福祉法人聖母会)によって運営され、日本国内で最も多くの「GIベビー」と呼ばれた子どもたちを受け入れました。
当時の日本社会では、GIベビーに対する偏見が非常に強く、国内での養育が難しい現実がありました。そのため、多くの子どもたちは海外へ養子に出されるのが一般的だったようです。
園には、当時の子どもたちの状況を記録した貴重な資料が今なお多数保存されています。これらは偶然に残されたものではなく、園舎の建て替え時に事務長・工藤則光さんが発見し、その資料的価値を見出して保管していたものだといいます。

養子縁組に関する書類
海外に養子に出された卒園生からは、「自分の本当の親が誰だったのかを知りたい」という問い合わせが、今もなお寄せられているといいます。こうした声に応えるために、聖母愛児園に残された資料は、現在も現用文書として活用されているのです。
「この展示の準備中にも、実際にお問い合わせがありまして、私が資料を探し、画像を工藤さんにお送りしたこともありました」と研究員の西村さんは語ります。
工藤則光さんが特に大切にしていたのが、「養子縁組に関する書類」だといいます。
「これは、聖母愛児園に子どもを預けたことを証明する文書です。なぜこれが大事なのかと申しますと、生みの母親のサインと母印が押されているんです。唯一、確実に自分の母親が触ったことが分かる資料なのです」(西村さん)
すべての子どもにこの資料が残されているわけではありませんが、もし現存していれば、見た人たちはほとんどの場合、その場で涙を浮かべるといいます。
「何十年経っていても、親を失った悲しみは変わることがないんだなと痛感させられます」(西村さん)

分園ファチマの聖母少年の町での暮らし

聖母愛児園は、カトリックのシスターたちによって運営されていた施設でした。カトリックの教義では、たとえ子どもであっても、学齢期に達した男子と女性(シスター)が共に生活することは認められていません。そのため、男の子たちは一定の年齢になると別の場所で暮らす必要がありました。
その受け入れ先として計画されたのが、大和市南林間にある約8,000坪もの広大な敷地です。ここに男子のための分園を建設する計画が立てられましたが、地元住民からは激しい反対の声が上がりました。
「展示しております"建設反対の趣意書"には『子どもたちの境遇には同情するけれど、日本社会が彼らを受け入れるとは思えない。だから彼らは海外で育てるべきであり、この地域に来ることに反対する』という趣旨の文章が記されています。今となっては信じがたい内容ですが、当時、一般の人々がこうした子どもたちをどう見ていたのかがよく分かる、非常に示唆的な資料です」(西村さん)
しかし、最終的にはカトリック横浜市教区の司教が地域住民との粘り強い交渉を重ね、ある条件のもとで建設が認められることになりました。その条件とは、「子どもたちを地元の学校には通わせないこと」でした。
「そのため、子どもたちは横浜市中区の元街小学校に通うこととなり、毎日バスで往復2時間をかけて通学していたそうです」(西村さん)
こうした厳しい条件のもとで、ようやく南林間の分園が実現しました。
施設内にいる限りはとても快適で、誰に話を聞いても「当時、子どもたちは皆非常に仲が良かった」と語られるといいます。園内にはアメリカ軍のブルドーザーで作られた本格的なプールもあり、これは周辺に住む子どもたちの羨望の的となり、近隣にも開放されていたそうです。
また、米軍が主催するパーティーも頻繁に開催されました。
「あるときは、米軍の複数の部隊が同時にパーティーを予定してしまって、子どもたち同士で"取り合い"のようになったというエピソードもあります。パーティーでは、お気に入りの子どもが見つかると、海外に連れて帰って養子にすることもよくあり、突然いなくなる子もいたので、"人さらい"と呼ばれていたそうです。当時は今のような綿密なマッチングはなく、希望する人がいれば、できるだけ早く養子に出すという方針だったようです」(西村さん)
カトリック施設であったため、日曜日には必ず教会に行き、礼拝に参加する生活が営まれていました。写真などを見ると、子どもたちの服装は決して粗末なものではなく、むしろ当時の日本の一般家庭の子どもたちよりも、きちんとした服を着ていたといいます。
「それは、彼らの最大の支援者が米軍の兵士たちだったからです。おそらく、罪滅ぼしの意味もあったのではないかと思います」(西村さん)

日曜礼拝に向かう子どもたち
聖母愛児園と分園ファチマの聖母少年の町卒園生、青木ロバァトさん

1948年(昭和23年)、現在の逗子市でアメリカ軍人の父と日本人の母の間に生まれた青木ロバァトさんは、妹のマリさんとともに、横浜市南区で比較的恵まれた家庭環境のもとで育ちました。しかし、1955年(昭和30年)、父が突然失踪。残された家族は困窮し、マリさんは聖母愛児園、ロバァトさんは南林間の分園に預けられることになります。その後、妹のマリさんは別の家庭に養子に出されましたが、行き先が分からなくなり、兄妹は生き別れとなっていました。
その後、青木さんの依頼を受けた研究員の西村さんが、聖母愛児園の工藤さんの協力のもと、マリさんの養子先に関する資料を発見。NHK Eテレの番組『ETV特集「ずっと、探し続けて~"混血孤児"とよばれた子どもたち~」(2021年放送)』では、調査の結果、マリさんは海外に渡る前に病気で亡くなっていたことが明らかになりました。
「青木さんは非常に悲しまれていましたが、『生きているのか、亡くなっているのかすら分からなかった。それがはっきりして、本当によかった』とおっしゃっていました」(西村さん)
今回の特別展には、青木ロバァトさんからお借りした関連資料も多数展示されています。青木さんはその後も海外には渡らず、日本で暮らし続け、数々の困難を乗り越えてこられました。
2025年9月15日(月・祝) 午後2時~午後3時30分には、横浜情報文化センターにて青木ロバァトさんと研究員の西村さんの対談形式で当時のご経験を伺う講演会を開催予定だといいます。「GIベビー」として横浜で生まれ育った青木さんの歩みを、戦後80年のこの機会に知る貴重な機会となっています。

横浜都市発展記念館 特別展「戦後80年 戦争の記憶―戦中・戦後を生きた横浜の人びと―」
【開催期間】2025年7月19日(土)から9月28日(日)まで
【開館時間】午前9時30分~午後5時(券売は閉館の30分前まで)
【休館日】毎週月曜日(月曜が祝休日の場合は開館し、翌平日が休館)
◎関連記念講演会「当事者が語る『GIベビー』の記憶」
講演者:青木ロバァト氏(聖母愛児園分園ファチマの聖母少年の町卒園生)
横浜で「GIベビー」として育った青木ロバァト氏をお招きし、特別展担当者との対談形式で講演を行います。
日時:2025年9月15日(月・祝) 14時~15時30分(開場13時30分)
会場:横浜情報文化センター 6階 情文ホール
定員:200名






