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新島八重は、なぜキリスト教の道に入ったか



2013年02月02日 公開

中村彰彦(作家)

『歴史街道』2013年2月号より

京都

八重、新島襄と結婚し、キリスト教へ入信

八重は会津戦争を戦い抜いた後、京都に移り住んでキリスト教の洗礼を受け、新島襄と結婚します。ここでは、なぜ八重がキリスト教の道に入ったのかを考えてみましょう。

実は明治以後、会津藩士やその子供の中でクリスチャンになった者はそう珍しくありませんでした。藩が敗亡し、それまで信じてきた価値観が壊されてゆく中で、「それを超える大きな価値観」に惹かれる部分があったのでしょう。

会津藩では先述の教育を通して、藩主への忠義と親への孝を中心とする倫理的価値観が組み立てられていました。にもかかわらず敗戦と廃藩置県で主君を喪失し、親も戦死――そんな状況に置かれた会津人がキリスト教の絶対的な神に救いを求めたのは、よくわかる気がします。さらに「己の良心のみに従う」キリスト教の倫理観は、維新以後、「勝てば官軍」の論理で理不尽にも賊名を被った会津人の心を支えてくれるものだったでしょう。

そして会津の人々は、会津戦争であまりに大きな悲劇に直面しました。家族や友が血しぶきの中で死んでゆく死屍累々たる光景を見て、死とは何か、生きるとは何かを考え抜かざるを得なかったはずです。キリスト教では、霊魂は不滅で、死ねば天国で愛する者たちと再会できると教えます。この教えは、数多くの悲痛な死に接した会津人たちにとって、大きな救いになったのかもしれません。

八重は日清・日露戦争では従軍看護婦を務めています。実は明治以後、八重だけでなく多くの会津女性たちが、看護婦の道を選びました。その理由は、いま述べたことの裏返しでしょう。会津の女性たちは籠城中、自分の帯の芯までほぐして包帯代わりとし、負傷兵を手当てしますが、薬も医学的知識もない中で、彼らが死んでゆくのをただ見守るしかできませんでした。彼女たちは強烈な無力感に打ちのめされていたはずです。

その無念を晴らしたい、という思いが会津の女性たちにはあったのではないでしょうか。禁門の変から戊辰戦争まで、3000名余の会津人が犠牲になった代わりに、明治以後の看護学の基礎ができあがったとも言えるのです。

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