エルトゥールル号の奇跡~日本とトルコを結ぶ絆
2013年02月06日 公開 2021年08月05日 更新
「まず自分が」という強烈な自主の精神
遠く距離を隔てた日本とトルコが、時代を越えて友情を紡ぎ続けてきた歴史は、ある意味で奇跡的なものといえるでしょう。
この奇跡をもたらした要因は、いくつかあります。1つは、避難現場が紀伊大島だったことです。ここは本州の最南端で、眼前に太平洋が広がり、滔々たる黒潮が流れています。そんな土地柄から、地元の人々には世界への視野が自ずから培われていました。
たとえば、遭難現場の近傍の崖の上にある樫野埼灯台は、幕末に日本に来航した諸国の要求を受け、イギリス人・リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計で明治3年(1870)に完成したものです。また、串本など紀州南部からは明治以降、多くの人々がハワイやオーストラリアなどに渡航し、主として漁業や潜水業に携わっています。それほど、海の彼方との交流が根付いた土地でした。
また串本沖は、諸外国が灯台設置を要求したことからもわかる通り「海の難所」として知られ、古くから海難事故が始終起きていました。明治19年(1886)には、イギリスの貨物船ノルマントン号も座礁沈没しています。この時には、イギリス人船員らは救命ボートで脱出し、沿岸の串本の人々に手厚く保護されましたが、日本人乗客は船に取り残されて皆、溺死し、事件は日本国内で大問題になります。普通ならば「冗談ではない。もう、二度と外国船は助けない」という考えになっても不思議ではありません。しかし串本の人々は、そんな考えは抱かず、なおエルトゥールル号の乗組員を必死で救出しました。海に生きる人々の熱い心意気がそこにはありました。
しかも、紀伊大島の人々は「他人に頼らず、まず自分たちがやる」という強烈な自主の精神(自治精神ともいえるでしょう)を胸に抱いていました。現代では、このような事故が起きたら、自分たちは動くことなくすべて「お役所頼み」にして、ひどい場合には、救援が遅かったといって政府を非難するかもしれません。しかし、紀伊大島の人々は、まず自分が動いて命がけでトルコ将兵を助け、自分たちの衣食をすべて与えるといってもいいほどの介抱をしたのです。「自分たちがやる」と考えたのは、紀伊大島だけではありません。遭難事故の後に、日本全国の人々が義捐金募集に積極的に応じたのも、同じ精神からでした。この気高い「自主の精神」が、トルコの人々を感動させる大きな要因になったのです。
一方、トルコの人々が、その感動を忘れずに子孫に伝えていてくれたことにも、実に胸を打たれます。それは、トルコの方々の恩義を重んじる気質に由来するのでしょう。
私ごとで恐縮ながら、とあるトルコ料理店を営むトルコ人の方とのお付き合いが30年以上続いています。とても信頼できる方だからこそ、それだけのお付き合いができたのだと思います。また、私の娘がトルコを旅行した時には、現地の男性のトルコ人ガイドが急に「皆さん、落ちてますよ」と言い出したそうです。何が落ちているのかと下を見たら、そのガイド氏曰く「僕の真心が落ちています」。女性観光客グループだったので、気を引こうとしての言葉だったのでしょうが、江戸時代の落語に通じるような温かいエスプリを感じる、何とも心憎い台詞です。
同じアジアの東端と西端に位置する日本とトルコは、どこか「あうんの呼吸」のように、お互いの精神性に共通する部分があり、好感を抱きやすいのかもしれません。「恩を忘れない」「お互いに、困った時には助け合う」という気風が、日本人とトルコ人には共通するようにも思われます。