意外と知らない「寿司のルーツ」 実は“東南アジア発祥”の食べ物だった?
2026年03月27日 公開
日本が世界に誇る食文化「寿司」。海外でも「ロール寿司」をきっかけに世界各国で食べられるようになりましたが、実は「寿司の発祥は日本ではない」と、株式会社さかなプロダクション代表取締役のながさき一生さんはいいます。
好きな食べ物ランキングの常連でもある寿司は、どこで生まれ、どのように親しまれるようになったのか――本稿では、寿司の起源や歴史について紐解いていきます。
※本稿は、ながさき一生著『寿司ビジネス』(クロスメディア・パブリッシング)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
寿司のルーツは東南アジアの保存食
私たちは、「寿司=日本の伝統文化」と、当たり前のように考えています。国内外を問わず、「SUSHI」は日本を代表する食文化として広く認識され、和食ブームの中心的な存在でもあります。実際、寿司は日本の食文化を語る上で欠かすことのできない、象徴的な存在だと言えるでしょう。
しかし、歴史をさかのぼってみると、寿司は最初から日本で完成された料理ではなかったことが分かります。寿司のルーツは、日本ではなく、東南アジアで生まれた魚の保存食にあると考えられているのです。
冷蔵庫や冷凍技術が存在しなかった時代、魚は非常に傷みやすい食材でした。特に高温多湿な地域では、獲れた魚をいかに長く食べられる状態で保つかが、人々の暮らしに直結する重要な課題でした。魚を獲ることと同じくらい、それを保存し、無駄なく食べきる工夫が求められていたのです。そこで人々は、魚を塩と米で漬け込み、発酵させるという方法を編み出しました。これが、寿司のはじまりとされる「なれずし」の原型です。
当時のなれずしでは、米はあくまで発酵を促すための役割を担っており、食べるのは魚だけでした。現代の寿司とは見た目も味も大きく異なりますが、「魚を無駄にしない」「保存期間を延ばす」という目的においては、極めて合理的な仕組みだったと言えるでしょう。これは洗練された料理というよりも、自然環境と向き合う中で生まれた生活の知恵であり、同時に持続可能な食のあり方でもありました。
注目すべきなのは、この保存方法が特別な料理人や権力者によって生み出されたものではないという点です。日々の暮らしの中で生まれた工夫が、人から人へ、地域から地域へと受け継がれていきました。その過程で、この技術は東南アジア一帯に広がり、中国を経て、日本へと伝来します。寿司は、最初から一国の文化として閉じた存在ではなく、複数の地域の知恵が重なり合うことで形づくられてきた食文化だったのです。
寿司は最初から特別な料理として生まれたわけではありません。寿司の出発点は、限られた環境の中で魚をどう食べ、どう残していくかという、人々のごく日常的な問いにありました。寿司は「文化」として語られる以前に、「暮らしの中の知恵」として存在していたのです。
この視点で寿司の歴史を見てみると、寿司がなぜ現代において世界中へと広がっているのか、その理由が少し見えてきます。寿司は、日本が世界に誇る伝統文化であると同時に、環境や社会の変化に寄り添いながら姿を変えてきた、柔軟性の高い食文化でもあります。
さて、この後は、日本の寿司がまずどこから来たのかを押さえていきます。寿司の原点を知ることは、寿司の現在、そしてこれからの未来を考える上で、欠かせない視点になるはずです。
寿司の国日本での最初の“すし”
日本では、魚と人との関係は、寿司が誕生するはるか以前から、すでに社会の中に深く根づいていました。その様子は、『万葉集』に残された数多くの歌からもうかがうことができます。漁労の情景や海の恵みを詠んだ歌は少なくなく、魚介類が当時の人々の暮らしに欠かせない存在であったことが分かります。
さらに、これらの歌や記録を読み解いていくと、魚介の利用は単なる日常の食事にとどまらず、政治や祭祀とも結びついていたことが見えてきます。朝廷の儀礼や祭りごとにおいて、魚介を安定的に供給することは重要な意味を持っていました。漁労や流通は、すでにこの時代から社会の仕組みの一部として機能していたと考えられています。そんな中で、日本で最初のすしは、一説として、中国からの律令制度の流入とともにもたらされたと考えられています。
文字資料上の重要な手がかりは、701年施行の『大宝令』や、後の『養老令』の注釈書などに見える「鮓」の記述です。また同時期の文字には「鮨」の文字も見られます。このことから、飛鳥時代から奈良時代に移り変わる頃には魚を加工した食品「鮓」や「鮨」が日本に存在していたことが分かります。
この頃の寿司の形は文献から読み解くことはできませんが、都への税として長距離輸送されていたことは読み解けるため、少なくとも保存食であることは分かります。なお、寿司の歴史を長年研究してきた日比野光敏氏によると、「すしが米を使う料理であることからその伝来は、稲作と期を同じくすると考えることもできる」ことが指摘されています。
時代が進み平安時代になると、「鮓」「鮨」の形に関する記述も文献に見られるようになります。927年の「延喜式」には、魚と塩と白米が材料であることが載っており、所々の文献の情報を集めると、いわゆる「なれずし」の形であることが前述の日比野氏によって解釈されています。なれずしでは、米は専ら発酵のため用いるもので、ドロドロに溶け、食べるものではありませんでした。
やがて時代が進むにつれ、発酵のために使われていた米も食べるようになり、「なまなれずし(生成ずし)」や「早ずし」へと姿を変えていきます。この変化は、単なる味覚の変化ではありません。保存期間が短くなる一方で、寿司を食べる場面やタイミングが広がり、次第に日常の食事としての役割を強めていったことを意味しています。
そして江戸時代、寿司は大きな転換点を迎えます。酢飯に生魚をのせる握り寿司が誕生し、屋台を中心とした町の「食い物屋」で提供されるようになりました。人が集まる都市空間で発展したことで、寿司は保存食から、作ってすぐに食べる即時消費型の食文化へと大きく舵を切ります。
現代の寿司は、江戸前寿司である
私たちが現在、寿司と聞いて思い浮かべるものの多くは、握り寿司ではないでしょうか。酢飯の上に魚をのせ、その場で食べる。この形式は、寿司の長い歴史の中では比較的新しいものであり、「江戸前寿司」に由来しています。
江戸前寿司が生まれた背景には、江戸という巨大都市の存在がありました。江戸時代後期、江戸の人口は急増し、町人文化が大きく花開きます。人が密集し、忙しく行き交う都市では、「手早く食べられる食事」が強く求められるようになりました。時間をかけて発酵を待つ寿司よりも、その場ですぐに食べられる寿司が、生活に合っていたのです。
こうして、保存を前提としていた寿司は、都市生活に適応するかたちで変化していきます。発酵をほとんど行わず、酢で味を整えたシャリに魚をのせる寿司が登場し、屋台で提供されるようになりました。これが、現在のにぎり寿司につながる江戸前寿司の原型です。
江戸前寿司の特徴は、単に魚を生でのせたことではありません。江戸湾、現在の東京湾で獲れる魚を使い、酢で締める、煮る、漬けるといった下処理を施すことで、鮮度や保存性に限界のある中でも美味しく食べられる工夫が重ねられてきました。こうした下処理は「仕事」と呼ばれ、江戸前寿司を特徴づける重要な要素となっています。
この時代の寿司は、決して高級料理ではありませんでした。屋台で立ったまま食べる、庶民のための手軽な食事だったとされています。現在の寿司にある「特別な日」「高級」というイメージは、後の時代に形づくられたものです。江戸前寿司は、まず都市で暮らす人々の日常を支える食べ物として広まっていきました。
江戸前寿司の成立を語る際によく名前が挙げられるのが、江戸時代後期の寿司職人、華屋與兵衛(はなやよへい)です。與兵衛は、酢飯に魚をのせた寿司を屋台で広めた人物として知られています。現在では、彼一人が寿司を発明したというよりも、新しい寿司の形を江戸の町に定着させた象徴的な存在として位置づけられることが一般的です。彼が活動したとされる東京都墨田区には、「與兵衛寿司発祥の地」とされる碑や像が残されており、江戸前寿司がこの土地の暮らしの中で育まれた文化であることを今に伝えています。
こうして江戸で成立したにぎり寿司のスタイルは、時代とともに全国へと広がっていきます。一方で、日本各地には箱寿司や押し寿司、柿の葉寿司、ますのすしなど、地域の環境や生活に根ざした寿司文化も残り続けてきました。つまり、現代の寿司は、江戸前寿司を軸としながらも、多様な寿司文化の重なりの上に成り立っていると言えるでしょう。
現代の寿司を「江戸前寿司の延長」として見ることは、寿司をより身近に理解する手がかりになります。寿司は特別な料理として突然完成したのではなく、都市の暮らしや人々の生活リズムに合わせて、少しずつ形を変えてきました。







