シベリアからの引き揚げ港として知られる舞鶴にある共楽公園には、かつて進駐軍の日系アメリカ兵が植えた「アロハ桜」がある。戦後の貧しい時代に植えられた桜は、時を経て見事な花を咲かせ、人々にその存在を知らせた。いったい誰が、どのような思いで植えたのか。その主が、プランテーションで働くためにハワイに移り住んだ日系二世、フジオ高木だ。
戦後、諜報部隊CICの一員として再来日したフジオは、12年ぶりに岩国の実家を訪ねる。ハワイで独り働き抜いて貯めたお金を、困窮する家族のためにと差し出した彼を待っていたのは、母ユキによる拒絶だった。凄惨な空爆の記憶が残る故郷で、二つの祖国の狭間に立たされたフジオ。作家の細川呉港氏がその軌跡に迫る。
※本稿は、細川呉港著『舞鶴に散る桜』(飛鳥新社)の内容を一部抜粋・編集したものです。
フジオ高木、両親に再会
突然のジープに乗った進駐軍の訪問に家族はびっくりした。森助、ユキの両親は健在であった。12年ぶりにあったフジオの成長した姿に母親は胸を熱くしたが、顔には表さなかった。因果を含めて、本人も納得ずくでハワイに置いてきたわが子だった。立派に育っていた。しかもアメリカ兵として、アイロンのかかった新しい制服を着て、ギャリソン帽を斜めにかぶって颯爽としていた。
だが会話は、その後すぐには弾まなかった。あまりにも長い別離とフジオの変わりよう、しかも相手は日本を占領統治に来た進駐軍だった。身分が逆転していた。その上、日本中が荒廃し、食べるものもなかった。高木家だけではない。日本人みんなが呆然としていたからである。
高木の実家は壊れていた。空襲で焼けたのではない、なぜか破壊されていた。
古い壊れた家を見て、フジオは持っていた貯金通帳を示し、「これで家を建て替えてくれ」と母親に言った。高木としてはいま自分ができる最大限の両親へのお土産であった。とにかくハワイにいる日本人は、お金を貯めて日本に送ることが目的だったから、フジオも若い時からお金を貯めていたのである。いつか両親に渡せる時を楽しみに働いてきた金だった。
だが母親の返事はそっけないものだった。
「いくらわが子の申し入れとはいえ、アメリカ兵の金は受け取れん」
たったこの間まで、敵として思ってきたアメリカ兵の好意は受けない。明治生まれの女の意地もあったろう。それだけではない。母親は言った。
「いま日本人は惨めにしておる。食べるものもない。しかしアメリカが戦争に勝ったからといって、フジオ、お前、威張るんじゃないよ。日本人にきつくあたったら承知しないよ。お前にこの家を建て直してやろうという気持ちがあるのなら、その金で日本人みんなのために何かをしてやれ。」
かつてハワイで暮らしたことのある母は、アメリカ兵となったフジオをそうたしなめた。かなり厳しい言い方だった。
フジオは、がっかりした。ハワイでずっとひとりで大きくなってきたから、両親の愛情にも薄かった。彼は、自分の貯めた金を母親が喜んで受け取ってくれると思ったのである。そして母親に褒めてもらいたかった。寂しかったろうがひとりでよく辛抱した。頑張ってたくさんお金を貯めたね、と笑って受け取ってもらいたかった。そうやさしく言って欲しかったのである。彼にとってはそれが長い間の夢であった。そのためにこれまで頑張って働いてきたのだ。
フジオが、岩国に行って母親に会った時の話で、残っているのはそれだけである。後に、周りの者に語った数少ないエピソードである。しっかりした明治の母親だったのであろう。フジオはその後何度か岩国の家を訪ねている。
岩国大空襲の実態
なぜ、母親は息子のせっかくの好意を拒否したのか。それは単に、母親が昔風の「日本人として凛と生きる大和撫子」だったためだけではなかろう。
「母親の拒絶」の理由を捜していた時、私はある重大なことを発見した。これはずっと後になって判明したことだが、それは、終戦時の異常なまでの米軍の岩国への空襲であった。
岩国もまた、日本各地と同じように空襲を受けている。アメリカ陸軍航空司令ヘンリー・アーノルドが綿密な作戦をたてて始めた「日本本土消滅作戦」である。工場地帯や、軍事施設の爆撃だけでなく、彼が考えたのは、市街地の消滅作戦であった。木造住宅の多い日本の市街地を、焼夷弾という「火を噴く筒」を、大量に撒くことによって町全体を焼き尽くすことができると。高高度から落とされる焼夷弾は瓦屋根を突き破って座敷に到達し火を噴く、それは絶大な効果を発揮した。
もちろん軍事施設には250キロ爆弾という強力な爆弾が投下されたが、室蘭、日立市、そして名古屋などでは軍艦による海からの市街地への艦砲射撃が行われている。軍事施設を狙ったものだ。東京空襲では、10万人が亡くなっている。15万人が負傷した。原子爆弾に次ぐ被害である。
岩国では、昭和20年3月から全部で9度の空襲が行われている。この岩国の空襲を細かく日を追って調べていて、私はあることに気がついた。そしてそれが、フジオ高木の母親が息子のお金を断った本当の原因ではなかったかと思うようになった。
岩国のような割りと小さな地方都市に空爆があったこと自体、私には信じられなかったが、空襲は3月から終戦前日の8月14日まで執拗に繰り返されたらしい。
詳細にいうと、まず3月19日に、岩国の南、山陽線に沿った海の縁にある藤生、通津、そして由宇の町々(いまは岩国市内)が、艦載機グラマン戦闘機に襲われた。元々、住宅密集地ではないから、畑に農夫、港に漁師、また駅周辺の住民、駅にはわずかの駅職員くらいしかいないところであるにもかかわらず、機銃掃射で狙い撃ちされたのである。
いわゆる空襲とは違う。航続距離の短い戦闘機が来るぐらいだから、敵の空母がかなり近くまで来ていることを示すのだが、多くの日本人はすでにそうしたことに気を配るだけのゆとりはなかった。畑で作業していた農夫や駅職員などが死亡。
小さな地方都市にもかかわらず、岩国が狙われたのは突き出した半島に海軍航空隊と、陸軍燃料廠があったからである。周辺の町に戦闘機が飛んできたのは、ある意味で偵察に、また相手の反応を見たのであろう。どのくらい対空砲火があるのか、迎撃機は飛んでくるのか。そういったようすを見たのかもしれない。
そして5月10日、海に張り出した陸軍燃料廠と、隣接した興亜石油の精製所が爆撃された。これはすごかった。B29の大きな爆撃機が100機以上、一気に大空を覆い、爆弾を驟雨のように投下した。その数2,000発以上といわれている。陸軍燃料廠はすぐに燃え上がり、大爆発を起こした。炎はその後消えることなく4日間も燃え続けた。それは岩国の町民にも大きな衝撃を与えた。
2カ月後、今度は岩国沖の柱島諸島が再びグラマンの戦闘機に襲われた。
岩国側と対岸の呉市や江田島に囲まれた内海のような安芸灘には、柱島、黒島、端島の三つを中心に円を描いて小さな島々があった。中心の柱島でも島民は何百人もいる島ではない。むしろ孤島といっていいほど。特に黒島は島民百人、半農半漁の小さな島である。グラマンはこの島にも10機編隊で襲いかかり、小学生の低学年が避難していた防空壕に爆弾を投下し命中、子供たち全員が生き埋めになった。
2日後にも黒島にグラマンはやってきた。今度は山林に逃げ込んだ生き残りの小学生に、機銃掃射を繰り返したという。母子3人が狙われ、ひとりの子供が亡くなり母子は大怪我をした。島の大人6人、子供たちは全部で22人亡くなっている。まるで、機銃掃射のゲームをするように、なぜ、このような軍事施設もない孤島の民間人を執拗に襲ったのだろうか―。それはいまもって謎である。
7月28日には、岩国の新設された第十一空廠への爆撃。
そして8月9日、海軍航空隊への爆撃と機銃掃射。もちろん日本側はもう反撃する力も航空機もなかった。日本の戦闘機を収納保護する、厚さ20センチのコンクリートで固めた掩体壕(えんたいごう)が狙われた。その中に多くの整備兵も避難していたのだ。彼らの多くは掩体壕が、爆撃で崩れるとともに生き埋めになった。周辺の民家も機銃掃射を受け、多くの民間人が亡くなった。
そして8月14日、ちょうど終戦の前の日である。おそらく翌日が終戦というのはアメリカ軍にも伝わっていたと思われるのに、空襲は14日夜まで続いた(この終戦前日の日の爆撃は、ほかに東京周辺の都市、小田原、伊勢崎、熊谷、高崎などでも行われた)。しかし、この14日の岩国への爆撃は、常軌を逸していた。
さして大きくもない市街地のある岩国駅の周辺に、焼夷弾ではなく、なんと250キロ爆弾が、何百発と落とされたのである。爆弾によって、家も商店街も吹き飛ばされ、土は舞い上がって大きな穴が無数にあいた。大きいものは直径30メートルの巨大な穴であった。後でアメリカ軍の公表した写真を見ると、岩国市街地が、まるで蜂の巣状に穴が開いている。体験者によると、家の柱も土台もあちこちに吹っ飛んで舞い上がり空が黒くなって周囲が見えなくなったという。後は形のあるものがすべてなくなったと。
焼夷弾ではなく、爆弾の恐ろしさはまさに人間が声も出せないほどのもので、爆弾投下は住民を打ちのめした。蜂の巣状に開いた穴に、さらに爆弾が、落ちてきて、新しい蜂の巣をつくったのだという。多くの人間が、建物と一緒に肉片となって飛び散った。その光景はまるで地獄以上だったという。小さな町だったのに1,000人以上が亡くなり、6,000人が負傷し手足をもぎ取られた。
この話は、もちろん岩国の爆撃や空襲を免れた人々にも、また周辺の田園地帯にもすぐ伝わった。当然のことながら高木森助や母親ユキにも生々しい声が伝わってきた。「アメリカはむごいことをする―」岩国の人々はみんながそう思った。
この米軍の、柱島における、農民や漁民を執拗に狙った機銃掃射や、岩国駅や周辺の市街地に落とした異常なまでの多くの爆弾は、後々まで、なぜこのようなことをしたのか話題になった。理由は分からない。
住民の間には、対岸の呉の工業地帯や造船所、そして港の周辺にいた多くの軍艦の爆撃の帰りに、余った爆弾を、遠く南方の基地まで持ち帰るわけにも行かないから帰りがけの駄賃に、通り道だった岩国にすべて落として行った―という人もいるし、また15日に終戦になることが分かっていてこれで最後だからと暴れ回ったという説明をする人もいる。真相はいまでも分からない。
最近、軍艦の歴史についていろいろな本を読んでいる呉の知人によると、「柱島? 柱島は戦艦大和の泊地だった。いや大和だけではない連合艦隊の泊地で、その柱島沖で戦艦武蔵が謎の爆発を起こして沈んだんだ」と言う。
泊地というのは洋上の戦艦の停泊地のことで、ちょうど呉港から近く、柱島諸島で囲まれた中海のような、瀬戸内海の中でも特に波の穏やかなところだ。アメリカ軍は、その泊地のある周辺の小さな島に、軍艦に乗る乗組員がいると思ったのかもしれない。
こうしたわけで、岩国の人々は、とりわけ進駐軍に対して憎しみを持っていた。そんな中に、息子とはいえアメリカ兵が母親を訪ねて「颯爽と」ジープに乗ってやってきたのだ。
「戦争に勝ったからといって、威張るんじゃないぞ。日本人をいじめたりしたらこの母が承知しない」と母ユキは息子にクギを刺したのである。だから、息子のお金の提供にも素直に受け取れなかったのに違いない。それは周囲の「世間」に対しても、顔向けが立たないからであった。







