戦争中に軍人や政治家が公然と軍のやり方を批判し、自らの意志を貫き通すのは非常に難しいことである。しかし先の大戦の時に、そのような気骨を示した男たちもいた。特攻に反対した美濃部正、軍部の言いなりの議員をはっきり批判した中野正剛...。語り継ぐべき彼らの直言とは。
※本稿は、保阪正康著『昭和史の核心』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
生の確率ゼロの作戦を強要する権利はない
ウクライナ戦争は出口が見えない状態が続いている。ロシア国民は実際のところ、この戦争をどのように見ているのだろうか。いつまでも続く戦争や、杜撰さがみられる軍事作戦に疑問を持つ軍人や議員がいたとしても、その疑問をはっきりと口に出して表明することは難しいだろう。
彼らの心中を想像するとやるせない思いがするが、翻って日本の先の大戦について思い起こすと、毅然と自らの意志を示し、時流に抗った者たちもいた。ここではそんな気骨のある男のうち、2人を取り上げて紹介したい。
一人目は、海軍の飛行部隊・芙蓉部隊の隊長だった美濃部正氏である。特攻作戦に公然と反対した指揮官だ。
私が氏と会ったのは平成元(1989)年から2年にかけて、都合3回ほどであったが、そのときは70代半ばであった。海軍の軍人として特攻作戦になぜ反対であったのか。その反対を意思表示したときに海軍内部にはどういう反応があったのかを聞きたいと思っての訪問であった。
氏はそうした話を自慢げに話すタイプではない。軍人としてより一人の人間としてこうした「十死零生」の作戦は採るべきではないとの信念を持っていた、その考えを指揮官の会議で披露しただけという。これが本人の述懐であり、それは特に褒められることではないとも語っていた。
私は氏が特攻作戦に公然と反対した会議の模様をこれまでも原稿に書いたことはあるが、氏の没後に家族が発表した回想録(氏自身が少しずつ原稿を書き進めていた)から、その状況を引用するとわかりやすいので、それをもとに書き進めることにしよう。
昭和20(45)年2月、連合艦隊主催の次期作戦会議が木更津の第3航空艦隊司令部で開かれた。幕僚、指揮官、飛行隊長など80人近くが出席したが、美濃部氏は最若輩の少佐で末席に連なっていた。
配付された資料を見て、「比島戦で証明済の効果無き、非情の特攻戦。これで勝算があるというのだろうか?」と氏は考え込む。指揮下部隊の能力、練度も無視している。連合艦隊の参謀の「全機特攻」に誰も異論を唱えない。
氏は次のように書く。
「練習機迄つぎ込んだ、戦略、戦術の幼稚な猪突でほんとに勝てると思っているのか。降伏無き皇軍には今や最後に指揮官先頭、全力決戦死闘して天皇及び国民にお詫びする時ではないか。訓練も行き届かない少年兵、前途ある学徒を死突させ、無益な道ずれにして何の菊水作戦か」
氏は自分の部下300人の搭乗員を考えると、「一人位こんな愚劣な作戦に反対、それで海軍から抹殺されようとも甘んじて受けよう!!」と決意して発言を求める。連合艦隊参謀の作戦案に正面からの反対論をぶった。
誰も死を恐れていない、しかし死をというなら確算ある手段をたてよ、との内容に参謀は激高する。
氏の反対論には重大な2点(「真の敵」への批判というべきか)が含まれている。第一に若い搭乗員に死を強要するならまずは自分たちが先頭に立って死んでいけ。第二にたとえ戦時下といえども他人に生の確率ゼロの作戦を強要する権利はない、である。
「この発言をしたとき、銃殺刑を覚悟したのですか」。「しました。体が震えましたよ」と氏は述懐していた。
特攻作戦に対するすさまじい怒り
芙蓉部隊は特攻編成から外され、夜襲部隊として菊水作戦に参加した。さらにこの部隊は、練習機などでの特攻作戦に加わっていない。優れたパイロットであった氏も率先して作戦に加わった。
一連の作戦の途次、氏は特攻の生みの親、大西瀧治郎中将に呼ばれて一晩歓談の機会を持った。二人は酒を飲めないので茶で語り続けた。大西は美濃部氏の勇気をそれとなくたたえたあとに、「こんな統帥の外道を進めた以上、自分も責任を取る」とつぶやいたという。
美濃部氏はそうした事実を淡々と語った。しかしこんな作戦を進めた参謀や指揮官、司令官に対するすさまじい怒りを手記には書いている。
そこには「妄想狂的猪突戦線拡大と兵站補給の軽視」といった語があり、「多くの前途夢多き若者を肉弾体当たり攻撃に追いやり、実効果無き敗戦となった戦争指導者達への報いはどの様であったか?」と氏は問い、それぞれの指導者たちの死の姿は真に特攻隊員を追悼していないともにおわせている。
平成3(91)年であったか、美濃部氏の証言をある月刊誌で紹介したことがある。かつての部下というパイロットたちから自宅への電話が相次いだ。「美濃部部隊長は我々にとって神のような存在です」と言って、誰もが電話の向こうで泣いた。
私は、こういう軍人の下で働いた彼らもまた、美濃部氏の人生訓を受け継いでいることを知らされた。