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13歳・人生の選択、父は息子とどう向き合うか

鷲田小彌太(札幌大学名誉教授/哲学者)

2013年06月04日 公開 2022年12月21日 更新

「助け船」は、息子の船が転覆しかかったときにのみ

 1 13歳の息子にとって、父親が(客観的に見れば)どんなにみすぽらしい船に乗っていても、持ち船をもたない身である。父親の船は大きく見える。多少とも立派に見えるのは当然だ。

 2 13歳の息子が乗る船は、息子が舵を取るように見えても、小さく、自走力は弱い。もし父親の船が伴走しようとすると、その出す波を被って転覆しかねない。

 3 父親の才・非才、成功・不成功にかかわらず、息子に直接影響を与えるようなことは、可能なかぎり控えるに越したことはない。父親は「見本」(モデル)にはなりにくいのだ。

 わたしは息子に、自分が読んでこれは「いい」と思えた本でさえ、一度も息子に勧めたことはない(と思う)。(*わたしが幸運と思えたことの1つは、田舎の商家に生まれたので、まわりの人がただの1冊も本を読むことを勧めなかったこと、わたしの家にハードカバーの本が1冊もなかったことである)

 加えていえば、これはわたしの「性癖」(マイーネーチャー)かもしれないが、子どもがわたしの仕事場に入り、書棚から無断で本をもち出すことを言外に禁じてきた。本はわたしの仕事の道具であるからだ。

 4 子どもを父親が(仕事で)乗っている船に同乗させる必要はない。もちろん子どもに父親より大きな船に乗ってほしいとか、乗れとか要望する必要もない。

 もう少しいえば、13歳の息子と同じ船で遊ぶ必要もない。息子のほうはいやだろう。息子は自分の船で楽しめばいいのだ。それに、中学生や高校生と同じ船で遊んでおもしろい父親はいるのだろうか。よほど楽しみがない男に違いない、と思うのは異常だろうか。

 父親が息子にできるのは、していいのは、息子の船が転覆しかかったとき、したときである。これは放っとけない。助け船を出す。救助船の出動も要請しなければならない場合もある。ただし息子の船が航路を大きく誤ることがないように、灯台の火を点し続けることなどは、できない相談だ。
  

 なんだ、息子に対して、はなはだ無関心じゃないか、冷淡にすぎるのじゃないか。こう思われるかもしれない。無関心を装って息子と向き合う。これが父親が息子に対するベターな関心の表し方だといいたい。

 

人生はみずから乗った船で進むしかないと教える

 13歳になれば、誰でも自分の乗る船を早くもちたいと思うものだ。目指す目的地に向かって航路を進みたいものだ。

 しかし、残念ながらというべきか、幸運というべきか、乗る船は決まっている。行く先も決まっている。未決なのは、どういう航路をたどるかだ。ただし航路の選択肢はあまりない。

 「受験」という船で、高校入試、大学入試、就職試験という航路を進み、「合格」を目指す。これが13歳の息子の目の前にあるメニューだ。ただし、船には等級分けがある。同じ「受験」という船に乗っても、テリトリィが異なり、異なるやり方(マナー)に従わなければならない。サービスも速度も違う船に乗ってゆくのだ。

 否も応もなく、高校、大学、職場で選別される。自分の寸法に合った船に乗らなければならない。正確にいえば、そこで乗った船が、その人の身に合った船だ、と認知される。

 いま無印、1つ星、2つ星、3つ星というように船のランクが決まっているとしよう。

 (1)高☆→大☆☆→会社☆☆☆ (2)高☆☆☆→大☆☆☆→会社☆☆☆ (3)高☆☆☆→大☆☆→会社☆……というように船を乗り換えることはできる。星の多少で、その時々で「成功」「失敗」と決められるが、一時のことにすぎない。

 ただしこの各航路は期間限定である。たかだか20歳の前半期までのことにすぎない。13~21歳は、人生でいうと、どんな荒波に襲われたとしても、処女航海である。きわめて重要だが、そこで着た衣裳は、どんなに体にぴったりしても、一時のもので、すぐに脱ぎ替えなければならない。脱ぎ替えることもできる。

 等級は分かれるが、とにもかくにも同じ航路を進む船に乗っていた13~21歳までの時期は、準備期の準備期で、ある意味ではまことに幸福な時代である。本格的な選別がはじまる準備期が30代の半ばまで続くと思ってほしい。今度は同じ船で、大枠、同じ航路を進むのではない。否も応もなく、自分が乗った、乗り込まざるをえなかった船で進むのだ。

 重要なのは、自分の乗った船はどんなにボロ船でも、当面は、そして当分はその船に運命を託さなければならないということだ。大地も、そしてレールもない大海を乗り切ってゆかなければならない。そう思えるかどうかだ。

 もし息子とTVでも一緒に観る機会があったら、コマーシャルタイムにでも、低い声でぽつぽつとこんなことが口をついて出るといいね。もっともそんなに簡単じゃないが。

 

鷲田小彌太

(わしだ・こやた)

1942年、札幌市生まれ。札幌南高、大阪大学文学部哲学科卒業。同大学院博士課程修了。1975年、三重短期大学講師、同教授を経て、1983年、札幌大学教授(哲学、倫理学担当)。2012年、退職。
主な著書に『ヘーゲル「法哲学」研究序論』(新泉社)『天皇論』(三一書房)『現代思想』(潮出版社)『倫理がわかる事典』(日本実業出版社)『大学教授になる方法』『「やりたいこと」がわからない人たちへ』(以上、PHP文庫)『日本を創った思想家たち』『晩節を汚さない生き方』(以上、PHP新書)『「夕張問題」』(祥伝社新書)『時代小説の読み方』(日経ビジネス人文庫)『男の老後力』(海竜社)『司馬遼太郎を「活用」する!』(彩流社)『定年と読書』(文芸社文庫)『日本と日本人の21世紀』(言視舎)など、著書は200冊を超える。


<書籍紹介>

父は息​子とどう向き合うか

鷲田小彌太 著
本体価格1,300円

フリーターやニートにならず、正業を持ち、「一人前」の男として生きてほしいと願う父親のために、息子との同性の親ならではの接し方を伝授。

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