先の大戦が幕を閉じてから81年の年月が経ちました。戦争体験者が年々少なくなっていく現実を前に、同じ過去を繰り返さないため、私たちには何ができるのでしょうか。
日本各地で哲学対話をひらいてきた永井玲衣さんは、写真家の八木咲さんと共に、「せんそう」について語ったり、聞いたり、考えたりする場をひらこうと、「せんそうってプロジェクト」を立ち上げました。7月に刊行された『せんそうって』は、文芸誌『群像』での連載をまとめた一冊です。
今回は永井さんに、人と人が対面で戦争を語り合うことの意味や、対話の場で戦争を語りたがる子どもたちの言葉から見えてきたことについて、教えていただきました。(写真:八木咲)
戦争論は“概念で遊べてしまう”危うさがある
――プロジェクトにあたって、フィールドワークも数多くされていたと思います。広島や沖縄にもよく訪れていたと思いますが、教科書や資料で学ぶことの方が多かったところから、実際に行ってみて得た感触はありましたか。
【永井】体を通すことの重要さですね。本にも書きましたが、陸軍病院の匂いを嗅ぐ。ガマに座ってみる、こんなに歩きづらいんだ、と体を通して考える。
戦争論は概念で遊べてしまうところがすごくあって。それは哲学がはらむ危険性でもあるのですが、頭の中で俯瞰して語れてしまうんです。フィールドワークをして歩いたり、くたくたな体になったり、実際に見たり聞いたり、体を通すことは、今ここに自分がいるということ、ここに誰かがいたということを、ちゃんと思い出す行為だと思います。すごく大事だと思っています。
――今おっしゃった「概念で遊べる」というのは、頭の中だけで完結して語れてしまうということでしょうか。
【永井】まさにそうですね。頭の中だけで考えることは、物事を抽象化して普遍化して語れてしまう部分もあると思うんです。
それが必要な局面ももちろんあります。しかし、たとえば「ウクライナとロシアはとことんやり合った方がいい」と、割と簡単に言えてしまう場合もある。そのとき、ウクライナやロシアはもうただの概念であって、そこに人間がいない。恐ろしい殺し合いが起きていることが捨象されてしまう。「一回喧嘩して、殴り合って、仲良くなるってよくあるじゃないですか、あれみたいなことをロシアとウクライナがしたらいいんですよ」みたいな。
そのときは体がないし、人間がいないし、自分という存在もいないみたいな感じで語れてしまう危うさがあります。あるいは「戦争はしょうがないよね、世界史的にはこういうこともあって…条約結んでこうなったら終わるからね」と、全部概念の話になってしまう。
それに抗う意味でも、訪れる、体験する、体を通して考えることが必要だと思います。
ネットに言葉を投げること、人が集まって対話をすること
――我々のメディアは大手ニュースプラットフォームにも記事を出しているのですが、そこでのコメントを読んでいると、大きく出るようなコメントが多いなと感じてしまいます。
【永井】いいですね、「大きく出るようなコメント」という言い方、すごくいい表現です。
――たった一人の個人でありながら、戦争をしている国々のことを概念のように語れてしまう違和感を感じます。何かきっかけがない限り、自分の体で知る大切さに気づけない、ということですよね。
【永井】対話の場も言葉でやりとりしているように見えて、ものすごく"体"なんですよね。もちろん実際に訪れることもすごく大事なのですが、「フィールドワークしないと絶対にだめ」ではないんです。
人々と集って対面で対話すると、そこにある声の震えや、その人が一生懸命喋っている姿に、私たちは動かされるわけです。その人が、たとえば自分の祖父の体験を語り直している瞬間に一緒に立ち会うのは、めちゃくちゃ体の感覚なんです。
仮に、自分自身の喉を通して、"大きく出てしまう"ような語りをしたときに、やっぱりチクっとするわけですよね。「この言い方でいいのかな」「みんなが『うーん』みたいな顔になっている」というように、言葉が逃げていく感じがする。
私たちは場にすごく影響されるので、体を持って今ここの私が語る、ある種の責任を引き受けるようなあり方は、ネットに書き込むのとは全く違う体験だと思います。
――確かにネット上だと相手が見えないから、いくらでも大きく出ることができてしまいますよね。実際に誰かと会って対話することと、ネット上で議論することには差があるということですね。
【永井】全く違うものだと思っています。対面でもSNS的な関わり方はあるのですが、ネットで何かを書き込むことを私は対話とは呼びません。対話の場を作ることとは、全然違うことが起きていると認識しています。
――そう考えると、対話すること自体を、もう少し違う意味で捉え直した方がいい人が結構多いのかなと思いました。
【永井】人が複数人いて、言葉がやりとりされれば対話だと言われてしまうことがあるのですが、私は対話とは「意識的な場」だとよく言っています。いろんなことを目指したり、作ろうとして作られる場だと思うので、ただ言葉がそこに置かれればコミュニケーションだ、対話だ、とはあまり思っていません。
"場"をどう作れるかということにすごく関心があります。ネットの中でぶつけ合ってしまうような言葉も、場がそうさせていることがあると思うんですよね。言っている本人だけが悪いのではなく、冷笑が起こりやすい場、攻撃が起こりやすい場がある。一方で、互いの話をゆっくり聞きやすくなる場もありうる。だから、人を責めるよりも、場を作ることにもっと集中したいと思っています。
戦争の話をしたがる子どもたち
――子どもたちと哲学対話の場をひらくと、頻繁に戦争の話が出るようになったとあとがきに書かれていました。子どもたちが戦争の話をしたがる現状を、永井さんはどう受け止めていらっしゃいますか。
【永井】ここまで国際情勢が悪化していて、新たな軍拡競争の時代に入ってきています。軍拡は互いの緊張をエスカレーションするだけだと私は思っているのですが、そういった動きがどんどんニュースでも報じられていて、国際的にも日本政府もそういう動きをしている。それを子どもたちは敏感に感じ取っているんだなと率直に思います。
子どもたちが語る言葉は、今、社会で何が起きているかを鏡のように映すんですよね。これだけ戦争の語りが増えたのは、それだけ今の世界のあり方が戦争に近づいていることの示唆であるし、大人たちが想像している何百倍も、子どもたちは考えているということです。
現場でそういう語りが出るたびに、「こんなに考えさせてしまっていたんだ」と立ち会った大人たちは衝撃を受けています。もっと曖昧な、「爆弾ドカーン」くらいのことだと思っていたのに、ものすごく考えていたんだ、と。それだけ子どもたちに負担を負わせている社会でもあることを、本当に感じなきゃいけないと思います。
――大人たちも驚くことを言うとのことですが、子どもたちは実際にどんなことを言うのでしょうか。
【永井】具体的にロシアがどうだ、アメリカがどうだ、といった話が出ることもあって、「よくそんな細かいこと知ってるね」といったこともあるのですが、もっとも多いのは怒りですね。「戦争はどう考えたって殺し合いなのに、なんでこれがなくならないんだ」「なんでもっと大人たちは"これ"をなくそうと努力しないのか」と、怒りの言葉が出てきます。
大人たちの語りの中では、本にも少し書きましたが「せんそうって兄弟げんかみたいなものですよね」と、戦争を矮小化するような言葉が出てくることが何度かありました。「今日も夫婦喧嘩してきて、まるで戦争でした」みたいな。
でも子どもたちからそういう語りはほぼ出てこなくて、むしろ「戦争と喧嘩って全然違うだろ、喧嘩で殺し合わないじゃないか。兄弟げんかで命を奪い合うなんてことはない。戦争はそういうことが起きてしまう。しかも一部の人が決めたもので、勝手に巻き込まれてしまうことでもあるんじゃないか」と。子どもたちの方が解像度を高く話す場面に、何度か出会ったことがあります。
――今のお話から、子どもたちの方が現実を見ていて、大人たちは目をそらしているのかな、とも受け取れました。
【永井】確かにそうかもしれないですね。対話が始まる前に、親や先生から「家では戦争の話は怖くて泣いてしまって話せない」「戦争はしょうがないと諦めてしまっているので、あまり話さないかもしれません」と引き継ぎをされたことがあったのですが、実際に子どもたちと一緒に場を作って話したら、「考えたい」と元気にのびのびと喋り始めたんですよね。
だから、本当に場があれば人は喋るんだなと、そのときも子どもたちに教えてもらいました。
(取材・構成:PHPオンライン編集部 片平奈々子)









