1. PHPオンライン
  2. Moguru(本の話)
  3. 連載小説「報復捜査」 第6回 安東能明

Moguru(本の話)

Moguru(本の話)

連載小説「報復捜査」 第6回 安東能明

安東能明(小説家)

2026年10月07日 公開

連載小説「報復捜査」 第6回 安東能明

殉職した公安部の刑事が追いかけていた事件に隠された真実とは!?

 

第6回

十分ほどで、三階建ての有家族待機宿舎に着いた。結婚以来、小暮(こぐれ)と圭子(けいこ)はここで七年近く暮らしてきた。それなりに高級感のあるアパートの造りだ。

駐車場に車を停め、エントランスで警察手帳を示した。守衛は一瞬、伊場(いば)の顔を見て、それから手帳を見た。少し間があったが、通してくれた。

エレベーターで三階に上がる。三〇五号室。伊場は呼び鈴を押した。

ドアが開いた。

圭子は、昨夜と同じ薄いグレーのカーディガンを着ていた。目が少し腫れている。それ以外は、整っていた。

「どうぞ」

玄関から廊下を抜けてリビングへ入ると、六十代の女性が台所に立っていた。圭子の母親だろう。伊場に向かって、お辞儀をした。

「あの、お買い物に行きますね......」と母親が言った。圭子が小さくうなずいた。母親はエプロンを外して、静かに部屋を出ていった。

四人掛けのダイニングテーブルに、向かい合って座った。何度も招かれて手料理をふるってくれた場所だ。圭子が茶を淹れてくれた。表情を見て、少し気が楽になった。

「昨日は大変でした」

伊場は改まった口調で言った。

「ほんと」

「体は?」

「......大丈夫じゃないけど」

圭子は薄く笑った。瞳の奥に、昨夜からの泣き跡が残っている。

「もうなんて言っていいか、わからない」

「おれも......。お母さんはずっといてくれる?」

「しばらく、いてくれると思う」

大塚の監察医務院で司法解剖が行われている情景を頭に描こうとしたが、できなかった。解剖は午前中に終わり次第、近くにある斎場へ運ばれてくるはずだ。

「斎場にはいつ行く?」

「搬送されたら電話が来る。タクシーですぐ」

「おれもついていこうか?」

職務停止になったことは言わないでおいた。知らされているかもしれないが。

「お母さんがいるから大丈夫」

「わかった。何かあれば遠慮なく言って」

「うん」

見慣れた部屋の風景を目でなぞった。

2DKの間取りは、夫婦ふたりで暮らすには十分な広さがある。リビングには、壁掛けテレビと圭子が選んだキャメルのソファ。外大出身の小暮らしく、背表紙に漢字が並ぶ中国語の専門書が詰まった木製の書棚が置かれていた。窓際には、圭子が大切にしている小さな観葉植物の鉢が並び、窓から差し込む斜光が、磨き上げられたフローリングを淡く照らしていた。伊場がいつも座らされたのは、キッチンが見渡せるこの位置だ。

気詰まりで、つい小暮の最近の胃の具合について訊いていた。

「相変わらず。胃薬は毎食飲んでたし、辛いものは避けてって言っても、聞かないし」

まだ小暮が生きているような口ぶりだが、違和感などなかった。

「あいつ、小さいときから辛いもの好きだったし」

「そう」

「給食で麻婆豆腐が出ると嬉しそうで」

圭子は、小さく笑った。

「そういう話、もっと聞きたかった。最近、ゆっくり話す時間がなくて」

圭子が目にうっすら涙をためて言った。

それきり、ふたりとも黙った。圭子が湯飲みを両手で持って、窓の外を見た。

「......伊場くん、膝はどうなの?」

「古傷だから、付き合っていくしかないよ」

柔道で痛めた膝が季節の変わり目に疼く。

「和くんは、いつも心配してた。伊場は膝が悪いのに張り込みが長いって」

「あいつが言うことか」伊場は言った。「胃薬飲みながら深夜残業してる奴が」

圭子は笑おうとして、でも笑えなかった。

「ごめん。余計なことを」

「いいの。......聞いていたい。そういう話」

しばらく、沈黙があった。階下で単気筒のオートバイの音がして、遠ざかっていった。

圭子は立ち上がり、書棚の前へ行った。背表紙に漢字の並ぶ専門書のあいだから、一枚の写真を抜き取って戻ってきた。色の褪せた、古いものだった。

「これ、和くん、本のあいだにずっと挟んでたの」

受け取って、伊場は言葉を失った。中学の制服を着た少年がふたり、自転車にまたがってこちらを見ている。富士森公園の桜だった。隣で得意げに笑っているのは、まぎれもなく自分だ。撮ったことすら、忘れていた。

「和(かず)くん、たまに言ってた。伊場は昔から、まっすぐで馬鹿正直なやつだって。おれはもう、ああはなれないって」

指先で、写真がかすかに震えた。あの夜の電話と、同じ言葉だった。おれみたいに、ならないでくれ。あれは酔った戯言ではなかったのかもしれない。

圭子は、写真をそっと押し返した。

「持っていて。和くん、きっとそのほうが喜ぶから」

伊場は、それを上着の内ポケットに収めた。

圭子が、湯飲みをテーブルに置いた。

「昨日ね、帰ってきたら、知らない人が三人いたの。公安の人だった」

伊場は黙って聞いた。

「和孝(かずたか)の仕事関係の荷物を調べます、って。わたしの携帯も見せてほしいって。断れる雰囲気じゃなかった。外に出るように言われて、廊下で待ってたんだけど、一時間以上かかった」

夫を亡くして、まだ一日経っていないのに、もう......。

「何か持っていかれた?」

「仕事の書類とか手帳やノートパソコン。スマホや外付けのハードディスク、ICレコーダーとかも。たぶん」

家宅捜索に等しい。遺族の同意を得た任意の捜索とはいえ、無慈悲に思える。

「和くん、一週間くらい前から、様子がおかしかった」圭子は、膝の上で手を組んだ。「いつもは絶対、仕事のことを家に持ち込まなかったでしょ。それが夜中に起きてパソコンを開いたり、何かの音声を聞いたりしてて。声をかけると、すごく驚いて。怯えてたような感じ」

「怯えていたって......何か心当たりはあるの?」

「......直接は訊けないよ。訊いたら、困らせると思って」

「そうか......」

「それと、亡くなる数日前」圭子は記憶をたどるように言った。「夜遅くに、小さな封書を一通、こっそり出しに行ったみたいだった。仕事の書類だと思ってたけど。なんでこんな時間に、って思っただけで、それきり気にしなかった」

伊場は、それを聞き流しかけて、頭の隅に留めた。深夜の封書という一点だけが、妙に座りが悪かった。

圭子は目を伏せた。それから、思い切ったように顔を上げた。

「わたし、和くんの手帳を、一度だけ見た。後ろめたかったけど、心配で。先月の三十日のところに、かわもとゆり、って名前があって。どこかで会う、みたいな書き方で」

テーブルの隅にある新聞チラシに、圭子は川本百合(かわもとゆり)と書いた。

伊場も知らない名前だった。

「和孝には?」

「訊いたら、認めた。その日、会ったって。仕事関係の人だって言ってたけど......雰囲気が、そういう感じじゃなくて」

仕事の相手にしては、引っかかる言い方だった。

「先に謝るけど、ひょっとしてガールフレンドとか?」

和孝は浮気をするような人間ではない。

圭子は唇を引き結んだ。

「それはないよ、絶対」

「仕事でもなくて、この女性は何かな......」

書かれた名前を指でなぞる。

「その人、会った日の二日後、高円寺で交通事故に遭って、亡くなったみたいなの。和くん、すごく無念そうに言ってたから」

伊場は、それを聞いて少し黙った。

五月三十日に密会して、二日後に交通事故で死亡。

小暮は、その前の週から阿久津(あくつ)の取り調べを始めている。

「公安に、そのことは話した?」

「話してない。昨日の人たちは、ほとんど質問もしてこなかったので。でも、何かおかしい」

伊場は返答に困った。

「和孝が信頼していた同僚はたしか......」

「永島(ながしま)さん?」

「そう、そんな名前の。そいつは来た?」

和孝の口から何度か聞いている。

「来なかった」

圭子の母親が帰ってくる足音が、廊下に聞こえた。

伊場は席を立った。

「こんなときに、悪かった」

圭子は、玄関まで伊場を送った。伊場が靴を履き、頭を下げてドアを開けようとしたとき、背後で圭子の声がした。

「伊場くん」

伊場は振り返った。

圭子は廊下に立って、じっと伊場を見ていた。その目に、これまでとは違う、何か思い詰めたような光があった。

「ほんとうに......あなたが撃ったの?」

伊場は息を呑んだ。

心臓が跳ねた。知っているのか。いや、知るはずがない。射手の名は公表されていない。だが圭子の目は、まっすぐに伊場を射抜いていた。

逃げたかった。目をそらしたかった。だが、そらさなかった。それだけはしてはならないと思った。

伊場は圭子の目を見返した。答えられなかった。肯定も否定もできなかった。喉が貼りついたように、声が出ない。

圭子はしばらく伊場を見ていた。それから視線をわずかに落とした。

「......ごめんなさい。変なことを訊いて」

圭子の声が震えた。

「でも、ひとつだけお願いがあるの」

伊場は黙って待った。

「和くんの死を無駄にしないで」

その言葉が、伊場の胸を貫いた。

圭子は顔を上げた。涙をこらえていた。

「和くん、最後に何かを抱えてた。怯えてた。それが何なのか、わたしにはわからない。でも、あの人はただの事故で死んだんじゃない。そんな気がするの。だから......お願い」

伊場は何も言えなかった。

ただ、深く頭を下げた。それだけで精一杯だった。

エレベーターで一階に降り、建物の外に出ると、灰色の空気が体を包んだ。

駐車場の手前で、伊場は足を止めた。

路上に、黒いセダンが停まっていた。リアウィンドウに立つ二本のアンテナと、前席に並ぶ男たちの視線が、捜査車両であることを無言で告げていた。

伊場は視線を外し、車に乗った。バックミラーに映り込むセダンが遠ざかる。

昼は、吉祥寺駅近くの定食屋に入った。カウンターに座り、日替わり定食を頼んだ。食べながら、考えた。

小暮は、阿久津の取り調べ中に何かをつかんだ。そこで川本百合という女の名前が出てきた可能性もある。川本は、六月一日に交通事故で死んでいる。小暮はその二日前、川本と密会している。それだけで、すでに普通ではない。

そして阿久津の逃走。副署長の即座の拳銃承認。マジックミラー越しの監視。副署長命令の強行突入。

ひとつひとつはそれぞれ、説明できなくもない。だが、全部が並ぶと、説明できなくなる。

伊場は、日替わり定食を食べ終えた。味は、ほとんど感じなかった。

午後四時、寮で喪服に着替えた。

阿久津の取り調べ映像のことを、また考えた。屋上での一部始終も含めて、どこかに映像が残っているはずだ。通常、留置施設や取調室には固定カメラがある。事件が起きた屋上や近隣のビルにもカメラがあったかもしれない。SATが入る前後で、記録はあるはずだ。それらを見れば、何かわかるかもしれない。

だが、それを手に入れる方法が、いまの伊場にはない。

通夜が行われる斎場は、武蔵野市の外れにあった。

駐車場に車を置いて、伊場は歩いた。式場には、すでに人が集まっていた。制服姿の警察官、背広の男たち、喪服の一般客。線香の煙が漂っている。受付で記帳を済ませ、焼香の列に着く。壇にある遺影に視線を当てる。違和感を覚えた。

順番が来た。抹香(まっこう)を指でつまみ、額に持っていって、炉(ろ)に落とした。遺影の小暮が、こちらを見ている。警視庁に入庁したときの写真だろうか。笑みを浮かべている。見慣れた顔だった。それが遺影になっている。

なぜ。

合掌したまま、目を閉じた。

なぜ、おまえはあの屋上にいた。

問いは、線香の煙とともに、行き場もなく天井へ昇って消えていった。

小暮の両親が弔問客に頭を下げていた。父親の康広(やすひろ)は元都庁の幹部職員で、伊場もよく知っている。紳士然とした顔立ちで、今夜だけはその顔が崩れていた。母親の富子(とみこ)は俯いたまま、親族らしい女性に支えられていた。

「この度は......」

言葉が続かなかった。康広は、伊場の手を両手で握った。それだけで、何も言わなかった。

その横に伊場の父の圭吾(けいご)と母の久子(ひさこ)がいた。八王子から来てくれたのだろう。元警官の父は、相変わらず実直な佇まいだった。

「元気出せよ」

父が言った。それだけだった。母は伊場の腕に触れて、何か言おうとして、やめた。

伊場はうなずいた。

玄関ホールには、焼香を済ませた吉祥寺署の顔がそろっていた。江越(えごし)署長、曽我(そが)副署長、新井(あらい)刑事課長。それから喪服姿の男たちが五人、少し離れたところに固まっている。

端に立つ、五十がらみの痩身の男が目に入った。公安部長の相良恒一(さがらこういち)だった。仕立てのいいダークスーツに黒のネクタイを締め、白髪の混じった髪をきっちりと撫でつけている。眼鏡の奥の目だけが、悲しみの場にそぐわず乾いていた。焼香の列にも加わらず、壇上の遺影をしばらく見つめてから、ゆっくりと会場へ視線を移していく。誰が来て、誰と誰が言葉を交わすかを、ひとりずつ確かめる目だった。そばに、外事二課長や第一係の係長と思われる男がいる。

伊場は刑事部の人間で、本部十四階の公安のフロアには数えるほどしか入ったことがない。だが、あの階を歩くと、肌にまとわりつくような冷たさを感じた。捜査員はすれ違う相手の顔を一瞬で読み取り、すぐに視線を切る。同僚にさえ懐を見せない。誰が誰を売るかわからないからその用心深さが、フロアの空気を凍らせている。いま通夜の席に並ぶ公安の男たちも、悲しみの只中にあってなお、互いの距離を測りあっているように見えた。

その中にひとりだけ、異質な空気を纏う男がいた。まだ二十代とおぼしきその男は、蒼白な顔で唇を噛み締め、何かに縋るような目で壇上の小暮の遺影を見つめている。何度もネクタイを直し、眼鏡を直そうとしては、その動作自体が無意味であることに気づいたかのように立ち尽くしている。

男に寄り添うように、永島さん、と伊場は声をかけた。うなずいた男に、伊場ですと名乗った。永島は、伊場の顔をまじまじと見つめた。

「......現場にいらした?」

とだけ洩らした。

「いました」

永島は目をそらさず、食い入るように伊場を見つめるだけだった。

連絡先を教えてもらえないかと頼むと、永島は仲間に背を向け、手早く名刺に携帯の番号を書き込んで寄こした。永島俊哉とある。鋭い視線を感じて振り向くと、相良がさっと顔をそむけた。

伊場も相良から目を離した。案内があり、全員が席についた。しめやかに通夜が執り行われた。式次第が終わり、人々が外へ流れ始めたとき、伊場は出口近くにいた新井に近づいた。

「新井さん。少しいいですか」

新井は伊場を見て、一瞬だけ何かをためらった。それから、小さくうなずいた。

ふたりは出口の外に出た。夕暮れどきの空気が、線香の煙を薄めていく。

「司法解剖の結果は?」伊場は訊いた。

「銃撃で死亡だ」

「執刀医は?」

「大洲(おおす)先生」

よく知っている。

「困っています」伊場は、声を低くして言った。「昨日、屋上で感じた違和感が、消えなくて」

「どんな?」

「曽我副署長の発砲命令と、その前後のことが、どうしても腑に落ちません。現場指揮は課長が執っていたのに、なぜ副署長が直接命令を?」

新井は、黙っていた。

「事件の映像を見せてもらえませんか。通信ログも含めて」

新井がゆっくりと息を吐いた。

「......じつは、おれも、少し気になることがある」

「どういうことですか?」

「通信ログを調べたら、事件発生時に、曽我副署長から各班への直通指示が入っていた。現場の指揮官を飛び越えた命令だ。しかも、正式な現場指揮の承認ログに、空白がある」

伊場は、黙って聞いた。

「それだけじゃない。前の夜の保守点検で、取調室の通信回線がバイパス配線に切り替えられていた記録が見つかった。本線をバイパスさせて、別の内線に直結させた形跡がある。警報ボタンが鳴らなかったのも、それが原因かもしれない」

伊場は、拳を軽く握った。

前夜の段階で、取調室は警察の通信網から切り離されていた。小暮がいくら警報を押そうが、最初から誰も気づけない仕組みになっていたということか?

「復旧手順は?」

「残っていなかった」

「やっぱり、おかしいじゃないですか。課長、この事件は」

「......伊場」新井の声が、低くなった。「立場をわきまえろ。深入りするな」

新井は、伊場から視線を外した。遠くを見ている。

「映像については......検討してみる。明日の晩、まことに来い」

背後から声がかかった。

「新井」

曽我副署長の声だった。

新井は、伊場を見た。その目に何があったか、伊場には読み切れなかった。

新井は、副署長のほうへ歩いていった。

〈つづく〉

プロフィール

安東能明(あんどう・よしあき)

小説家

1956年、静岡県生まれ。明治大学政経学部卒。浜松市役所勤務の傍ら、94年『死が舞い降りた』で日本推理サスペンス大賞優秀賞を受賞しデビュー。2000年『鬼子母神』でホラーサスペンス大賞特別賞、10年には「随監」で日本推理作家協会賞短編部門を受賞。緻密な取材が生む警察小説やサスペンス小説で多くのファンを魅了している。

関連記事

アクセスランキングRanking

前のスライド 次のスライド
×