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生き方

明治の会津人 誇りを失わず、あくまで「公」のために尽くす

『歴史街道』編集部

2013年07月19日 公開 2024年12月16日 更新

明治の会津人 誇りを失わず、あくまで「公」のために尽くす

激闘の末に、痛憤を堪え血の涙を流す思いで降伏した会津藩。しかし維新後の生活は、情け容赦のない苛酷なものであった。極寒と飢えに苛まれる斗南の生活、露骨に差別され、閉ざされた官途…

しかし、彼らは怯まずに立ち向かっていく。

それこそが、「会津の戦い」であると信じて。

 

ここはまた戦場になるぞ

鶴ケ城の開城後、生き残った藩士たちは猪苗代に送られた。老人と婦女子は許されたが、八重はあくまで「自分は三郎」と言い張って、猪苗代に同道しようとし、途中で女だと見破られて追い返されている。

その後、藩士たちは明治2年(1869)1月から東京と越後高田とで謹慎するが、同年9月に容保の罪が許され、11月には容保の息子・容大が青森県下北半島に三万石の地を賜った。会津人たちはこの地を「斗南藩」と命名し、翌年から移住が始まる。

しかし斗南は、気候と土地柄の厳しさから実質は七千石ほどであり、着の身着のまま移住した藩士たちは、たちまち飢えと極寒に見舞われて塗炭の苦しみに叩き落されるのである。

会津戦争で毋や姉妹が自刃した柴五郎も斗南に移住した1人だが、その暮らしを次のように回想している。

「この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか」

「『やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生きぬけ、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ』と、

父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ、犬肉の塩煮を飲みこみたることを忘れず」(柴五郎著、石光真人編著『ある明治人の記録』)

この苦境を脱するべく、柴家の長男、柴太一郎と、八重の夫・川崎尚之助がデンマーク領事で商人でもあったデュースから広東米を調達しようとするが、仲立ちの日本人貿易商が契約を履行しなかったためにデュースから訴えられ、両名が責任を負って獄に繋がれる悲劇も起きた。

それでも容保や容大を中心にまとまって、何とか開墾を成功させようと刻苦勉励する会津人たちであったが、明治4年(1871)7月14日に廃藩置県となり、旧藩主は東京に住むことを命じられる。

容保一家が東京へ移ると、旧藩士たちも身の振り方についてそれぞれ決断を迫られることになった。彼らはなお「逆賊」として白い目を向けられており、進める道は限られてもいた。しかしそれでも会津人は、不屈の魂を決して失わなかった。

 

どこまでも誇りを失わず

斗南に残り、開墾を進めた人々もいた。代表的な人物が、幕末に京都で公用方として活躍した広沢安任であろう。彼は斗南藩の少参事を務めた後、「野にあって国家に尽す」の信念を貫いて斗南に洋式牧場を開設・成功させ、日本の牧畜業の発展に大きく寄与した。

もう1つの流れは、東京などで活躍した人々である。佐川官兵衛は明治7年(1874)、時の大警視川路利良に乞われ、旧会津藩士300人と共に警視庁に奉職する。

明治6年(1873)の政変で西郷隆盛らが旧薩摩藩士を引き連れて下野した穴を補うためであった。また、山川大蔵(維新後、浩と改名)は、斗南藩で権大参事を務めた後、日光口で戦った土佐藩の谷干城の推薦により、明治6年に陸軍に出仕している。

明治10年(1877)の西南戦争では、両名とも九州に出陣した。官兵衛は警視庁の隊を率いて攻撃中に戦死するが、警視庁の会津人たちは奮戦を続け、「戊辰の仇」と叫びながら薩摩軍を切り崩していった。 

一方の山川浩も、薩摩軍が攻囲する熊本城に救援部隊として真っ先に突入する武勲を挙げている。この戦争に臨んで浩が詠んだ歌が残る。「薩摩人みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の利きか鈍きか」。

武ではなく文で身を立てた者もいる。

山川浩の弟・健次郎は戊辰戦争を白虎隊士として戦ったが、後に政府派遣の留学生に選ばれ渡米。人一倍の熱心さで物理学を学び、帰国後は東京帝大教授に就任。やがて東京帝大、九州帝大、京都帝大の総長を歴任する。

活躍したのは男性ばかりではない。山川浩の妹・捨松も政府派遣留学生として渡米。帰国後は薩摩の大山巌と結婚し、その洗練された身のこなしと教養から『鹿鳴館の花』と称された。

また、看護婦育成や女子教育の発展にも大いに尽力した。実は瓜生岩や井深登世、さらに山本(新島)八重など、会津出身者で看護婦として活躍した女性は多い。悲惨な会津戦争での体験が大きな影響を与えていたはずである。

もちろん会津人の中には、明治9年(1876)の思案橋事件(萩の乱に呼応しようとした旧会津藩士たちが未遂で逮捕された事件)を起こすなど、新政府にあくまで抵抗する者たちもいた。

だが、明治以後も「藩のため、国のために尽くす」という人生の目的を見失わず、自らの務めを誠心誠意果たし、社会に大きく貢献する人物を数く輩出していることも確かである。

ちなみに八重の兄、覚馬も、京都の薩摩藩邸幽閉から釈放された後、その見識が認められて京都府の顧問となり、八重や母・佐久を呼び寄せて、共に京都の近代化に大きな役割果たした。

「ならぬことはならぬ」の精神を堅持し、会津武士の誇りを失わず、あくまで「公」のために尽くす――。それも「逆賊」の汚名は正当なものなのかを天下に問う、会津人の生涯をかけた戦いだったのではなかろうか。

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