わが国最後の内戦、西南戦争とは~薩軍決起から田原坂、西郷自刃まで
2013年09月20日 公開 2024年12月16日 更新
『いっきにわかる幕末史』より
西郷隆盛と私学校党
相次ぐ士族反乱を鎮圧した内務卿・大久保利通には、最後の、そして最大の悩みがまだ残っていた。
故郷の鹿児島に帰ったままの西郷隆盛である。
西郷は、明治7年(1874)6月に鹿児島に「私学校」と称する学校をつくり、若い士族の教育にあたっていた。これは篠原国幹を長とする銃隊学校と、村田新八を長とする砲隊学校からなっていて、このことからもわかるように、かなり軍事的な色合いの強い学校であった。
ほかに、吉野山の開墾を目的とした開墾社、少年教育のための賞典学校も西郷は設立しており、これらも広い意味での私学校に含まれた。西郷自身は、開墾社での農作業に加わって汗を流すことはよくあったが、それ以外の学校での指導は自分ではほとんど行わず、すべて後進にまかせていた。
そのせいもあり、西郷の意志とは関係なく、私学校はしだいに反政府的な性格を強めていったのである。
また、鹿児島県令・大山綱良が、西郷寄りの人物であったこともあり、県内の要職を私学校の者が占めるようになった。別府晋介、辺見十郎太、野村忍介らがその例で、明治9年(1876)ごろになると、鹿児島県は政府の統治も及ばない部分が目立っていた。
その状況を、木戸孝允などは「独り独立国の如し」と慨嘆した。木戸は前述したようにここ数年体調がすぐれず、そのせいもあって政治に対する意欲さえ失っていた感があった。
しかし、大久保の場合はそういうわけにはいかなかった。明治政府の事実上の責任者として、そして西郷のかつての盟友として、鹿児島があたかも独立国の様相を呈している状況を見逃しておくことはできなかったのである。
最初に動いたのは大久保のほうだった。そのためこれを大久保の挑発行為ととることもできる。
明治9年12月下旬、中原尚雄ら薩摩出身の警察官など 23人が鹿児島に派遣された。名目は帰省ということだったが、その実は、西郷と私学校党の動向を探る任務をおびた密偵だった。
中原らが鹿児島に着いたのは、翌明治10年(1877)の1月半ば。そのことを知った私学校党は警戒したが、彼らをさらに刺激したのは1月下旬、政府の汽船が突然やってきて、鹿児島にある陸軍の火薬庫から夜間ひそかに弾薬を運び出したことだ。
保管してあった弾薬は政府のものであったから、本来はさほど問題のある行為ではなかったが、疑心暗鬼になっている私学校党は憤激した。そして1月29日夜、草牟田の火薬庫を襲撃し、大量の弾薬を奪って引き上げたのだった。
この報告を受けた西郷は、「しまった」と口走り、「なぜ弾薬などを盗むか」と残念そうにつぶやいた。
政府所有の弾薬を私学校党が強奪したとなれば、厳しい処置が下されるのは間違いない。下手をすれば私学校は廃止、そんな口実を政府に与えたことになるのだった。
西郷の落胆をよそにいきり立つ私学校党は、2月に入ると、中原尚雄らの密偵を全員捕らえて拷問を加えた。その結果、実は自分たちは西郷暗殺の密命をおびていると、中原が自白した
これは拷問に耐えかねて発した言葉である可能性が高いから、どこまで真実であったのかはわからない。しかし、私学校党のほうでは、やはり刺客であったかと激怒し、もはや誰も止められないほどに沸騰した。