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わが国最後の内戦、西南戦争とは~薩軍決起から田原坂、西郷自刃まで

山村竜也(歴史作家/時代考証者)

2013年09月20日 公開 2023年01月05日 更新

田原坂
西南戦争最大の激戦地、田原坂の現在
 

西南戦争の勃発、そして…

2月5日、私学校本部で緊急会合が開かれた。西郷の意見を聞き、私学校党として兵を挙げるかどうか、決定する重要な会合である。

議論のなかで、永山弥一郎、野村忍介らの自重論も出たが、篠原国幹、別府晋介、辺見十郎太らの主戦論が 200余人の参加者の圧倒的支持を得た。最後に桐野利秋が西郷自身の意見を求めると、西郷は、何もいうことはない、お前たちの良いと思うようにしてくれといい、

「この体はお前さあたちに差し上げもんそ」

と微笑んだ。一同はわき返り、出兵は決まったのだった。

翌日から私学校党を中心とする薩摩軍の編成が行われ、総数は1万 3000人を数えた。これを7つの大隊に分け、1大隊を 2000人とした。

そして2月14日、薩摩軍の先鋒が出陣を開始、17日には総大将の西郷も出発した。全軍がまず向かったのは熊本鎮台の置かれた熊本城で、そこを軽く突破してから、陸路東京に向けて進軍するという計画だった。

ところが 22日、薩摩軍が攻城を開始しても、熊本城は一向に破れる気配がない。司令長官・谷干城以下の鎮台兵の守りが予想外に堅固だったのだ。

薩摩軍は攻城を続けるが、そのうちに政府が6万もの征討軍を九州に送ったという情報が入る。やむなく薩摩軍は熊本城周囲に 3000の兵を残し、主力は北上を急ぐことにした。

すると27日、早くも到着した征討の政府軍が、薩摩軍と高瀬で激突した。激しい銃撃戦が展開され、両軍とも譲らぬ戦闘となったが、やがて篠原隊の銃弾が尽きて薩摩軍は退却を余儀なくされた。

緒戦で大きくつまずいた薩摩軍であったが、政府軍がそのまま一気に熊本城まで南下できたわけではない。熊本に至る途中には、要衝の田原坂があったからだ。

田原坂は、2キロほどのゆるい勾配の坂で、一の坂、二の坂、三の坂と曲がりくねっている上、道の両側が切り立った崖になっているために全体の見通しがきかなかった。政府軍が熊本に向かうには、どうしてもこの難所を越える必要があったのである。

薩摩軍は、地の利をいかして道の左右に壁塁を造り、敵を一斉射撃できる態勢をとった。この田原坂で敵を足止めできれば、包囲中の熊本城も手に入るのは確実で、戦況は大いに有利となるのだ。

3月4日、西南戦争中最大の激戦となる田原坂の戦いが始まった。初日の戦闘で薩摩軍は篠原国幹が戦死する痛手をこうむったが、降り出した雨のなか、一所懸命に政府軍と小銃で渡り合った。

政府軍の主力小銃が元込め式のスナイドル銃だったのに対して、薩摩軍は先込め式のエンフィールド銃であったから、5日以降も降り続いた雨には火薬が濡れて困らされた。

そこで薩摩軍は、銃に頼らず、抜刀して斬り込む戦法をとって、政府軍を恐れさせた。薩摩兵はほとんどの者が示現流、自顕流の剣を修行しており、その一撃必殺の斬撃は敵を震え上がらせた。

政府軍のほうでも、14日、旧会津士族が多い警視隊(警察官兵)のなかから抜刀隊を選抜して対抗した。彼らのなかには、かつて戊辰戦争で薩摩に痛い目にあったことを忘れておらず、「戊辰の復讐!」と叫びながら剣をふるった者もあった。

「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」とはのちに歌われた歌だが、両軍の膠着した戦いは16日間続いた。

そして3月20日、政府軍は猛攻の末についに薩摩軍を退却させ、田原坂を抜いた。戦力の劣る薩摩軍としては、むしろよく持ちこたえたというべきか。

4月15日、政府軍は熊本城に入城。薩摩軍は田原坂を撤退して以降、敗戦への道をたどっていくことになる。

熊本城を落としたあと、東京まで攻め上る予定が、結果的に九州から出ることもできずに薩摩軍は南下した。人吉から宮崎、延岡と敗走を続け、わずか 700に減ってしまった兵とともに西郷は9月1日、鹿児島に帰還した。

もはやこれまでと察した西郷は、従う者 370人とともに城山に登り、岩崎谷の洞窟にこもった。それを包囲する政府軍は、すでに5万の大軍となっていた。

政府軍の総攻撃が開始されたのは、9月24日の午前4時。砲声を耳にした西郷は、桐野、村田、別府、辺見らの幹部 40人ほどとともに洞窟を出た。そして一同、敵の銃砲弾が飛来するなかを、堂々と山を駆け下りていった。

やがて銃弾が西郷の太股と脇腹に命中し、西郷は倒れた。そして、かたわらの別府に向かい、「晋どん、もうここでよか」と告げた。

別府は、涙をふりしぼりながら腰の刀を抜き、端然と正座して手を合わせている西郷の首を落とした。享年 51。午前7時ごろのことだった。

別府のほか、桐野、村田、辺見らも西郷を追うようにして戦死をとげ、7か月にもおよぶ西南戦争はこの日、終結した。薩摩軍の戦死者約 5000人、政府軍の戦死者も 7000人近くにのぼったという。

多大な犠牲を払いながらも、わが国最後の内戦は、こうして幕を降ろしたのである。

城山

城山から望む桜島
 

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