中東革命 「明日はわが身」と震撼する中国
2011年03月28日 公開 2022年11月02日 更新
《『Voice』2011年4月号より》
直訴村に出かけた温家宝
中国外務省の馬朝旭報道局長はエジプト政変(ムバラク退陣)の報に接し、「国家の安定と正常な秩序の早期回復につながることを望む」という談話を発表した(2月12日)。新華社も「国際社会は平和的な政権移行を求めている」とし、混乱の影響を懸念する中国政府の心理的な衝撃を隠した。
中国のインターネット上には「次の民主化は中国だ」とか、「エジプト軍は発砲しなかった(天安門事件で学生に発砲した中国人民解放軍とは違う)。まさに人民の軍隊だ」などの批判、揶揄が集中した。
ツイッターやフェイスブックでも検閲が厳しくて削除されるため、中国の若者らは「エジプト」「ムバラク」「チュニジア」などについて、発音が同じで異なる漢字を当て、痛烈な批判を続けた。それでも当局が禁止した語彙を用いると1時間以内には消去される。
ビロード革命(チェコ)も薔薇革命(グルジア)もオレンジ革命(ウクライナ)も、起こったのはキリスト教圏だった。例外はキルギスのチューリップ革命だったが、このイスラムの小国では大統領一族の腐敗と汚職が始まり、たちまち「民主化」という夢は潰え、すぐに元のような独裁政治が生まれた。イラクは米軍の介入で民主化したはずだった。ところがいまのバグダッド政権は、イランの影響を受けたシーア派が主流である。
エリツィン時代のロシアの民主主義は行方不明となり、当時副首相だったネムツォフがこういった。「ムバラクの独裁とプーチンの政治は同一だ」(『ヘラルド・トリビューン』2月4日付)。
しかし「独裁政権のほうが決定が早い。騒がしいだけで時間のかかる民主国家よりビジネスはやりやすい」と、欧米と日本の企業家は「北京へ北京へ」と擦り寄った。天安門事件のほとぼりが冷めると日本の財界人を差し置いて欧米首脳は財界人を大挙同道し、北京へ詣でた。
そのおかげで経済成長が持続し、中国共産党は延命できた。
エジプトで反ムバラク運動が燃え盛った折、エルサレムを訪問中だったメルケル独首相とベンヤミン・ネタニヤフ首相は記者会見し、「エジプトの騒擾の背後にはイランがいる」といった(1月31日)。
「『ムバラク以後』のエジプトを恐れる」として、ネタニヤフは次のように付け加えた。
「30年に及ぶイスラエルとエジプトの平和条約を、『ムバラク以後』もエジプトの新政権が遵守することを望む。30年間、両国の関係は平和裡に保たれた。EU首脳ならびに米国の首脳にも電話で、ムバラク批判を控え、改革を拙速に要求するべきではないと伝言した」
理由はムバラクの無秩序的な退場は、より激しい混沌と混乱を中東全域に招きかねず、地域の安定と平和を損ねるからだ。
ネタニヤフ首相はさらにいった。
「エジプト最大野党の『ムスリム同胞団』はイスラエルとの平和共存を望まず、西側との同盟関係の維持にも賛意を示しておらず、イスラエルとの平和条約を破棄する方向へ動くだろう」
このイスラエルと同様の危機意識を示したのは米国、サウジアラビアなどだが、カイロから遠く離れた北京も、別の意味でエジプト政変には震撼したのである。
1989年の天安門事件を封印し、2010年の劉暁波へのノーベル平和賞にあれだけの悪態をついた中国政府は、「民主化」の伝播はとんでもないことと認識している。ただちに中国共産党は報道管制を強化し、インターネット、ツイッター、フェイスブックに飛び交う「エジプト」「ムバラク」をチェックし、検索エンジンにはエジプト関連の語彙を打ち込んでも画面に何も出ない。
中国国内でチュニジア、エジプトの民主化劇報道はいっさいない。エジプトで起きた政変の本質を民衆レベルは知らないが、それでも安心できない中国共産党は、唐突に温家宝首相を北京の直訴村へ派遣して庶民の不満を聞くというジェスチャーを示し、その場面をテレビで大きく放映させた。革命以来、首相が直訴村へ出かけるというのは初めての椿事。民衆の暴発の危険性を探っているのだ。
共産党中央宣伝部は、各メディアに対して「新華社以外の報道を転載するな」と通達し、唯一エジプト問題を報じた『グローバルタイムズ』(新華社系の英字新聞)は、社説に「カラー革命は民主化をもたらさない」(1月30日付)と書いた。「エジプトでいま選挙が行なわれたら、イスラム原理主義指導者が当選し、欧米スタイルの民主主義を破損し、さらには米国への石油供給を止めるだろう」というのが中国の共産党御用達メディアと体制側知識人らのコメントである。
「民主化」はイスラム原理主義過激派が仮装するスローガンにすぎず、イランのような宗教独裁が現われることを恐れる、という文脈で中国の思惑と、欧米諸国ならびにイスラエルの利害が一致する。
アルジェリアのアルカィーダが「ウイグル同胞を弾圧する中国に鉄槌を!」とするテロ宣言を出したのは、「中国共産党は無神論、アラーの神を冒涜する」からであり、彼らの敵は中国でもある。そういえば、外交機密を暴露したウィキリークスの主宰者ジュリアン・アサンジも「本物の敵は中国だ」といった。
ぬっと出てきた原理主義
さて民衆の抗議デモ、暴動から流血、国家元首逃亡、政権転覆という「アラブ・ドミノ」の嚆矢は、古き時代の貿易立国=カルタゴ、いまの北アフリカの疑似独裁国家=チュニジアからだった。その発端から、わずか2カ月のうちに隣国エジプトの独裁政権まで崩壊させてしまった。
23年にわたるベンアリ大統領の独裁ノウハウは秘密警察。それゆえ表面的には治安がよかった。町の至る所でベンアリ大統領の肖像が飾られ、辺りを睥睨していた。見えない監視の目が絶えず国民を見張っていた。これはイラクのサダム・フセイン独裁下のバグダッドに酷似し、エジプトのムバラク独裁体制もそうだった。
チュニジアのベンアリ独裁政治は終わりを告げ、西側はこれを「ジャスミン革命」と名付けた。アラブ世界の民衆は、「チュニジアの『インティファーダ(民衆蜂起)』はアラブ世界に拡大する」と歓迎した。
この政権転覆を「明日はわが身」と身構えたのが、エジプト、リビア、イエメン、そしてヨルダンだった。なかでも、正月元旦にキリスト教徒がテロの犠牲となって治安が悪化したエジプトが最悪の危機意識を抱いた。
チュニジアとエジプトの独裁政権はインターネットを監視してきた。しかし、これらの監視を突き破ったのがツイッターとフェイスブックの普及だった。
カイロとチュニスには「権力の空白」という奇妙な空間が生まれた。政治空白は陰謀を生みやすく、次にやってくるのは希望か、それとも恐怖か。
「希望」のシナリオは、「チュニジア政変は北アフリカ(マグレブ)とアラブ世界への民主化ドミノの基点となる」というものである。
抗議デモは、留学帰りの学生が中心となってツイッターとフェイスブックで呼びかけた。北アフリカのなかでもチュニジアは中産階級が比較的多く、教育水準も高いため、民主政治への移行も円滑に行なわれるだろうというのが「希望」のシナリオの基礎にある。
「恐怖」のシナリオは、これまで行政を兼ねた独裁レジームが崩壊すれば、「マグレブのアルカィーダ」などテロルの跳梁跋扈を生みやすい。彼らは資金が潤沢で、騒擾の不安定状況に付け込むのは容易である。
独裁は去っても宗教独裁という恐怖政治が待つだけ、という負の方向に収斂したものだ。
北アフリカの反応は両極に揺れた。
リビアの独裁者=カダフィ大佐は嘆きの談話。「前途にあるのは混沌だけだ。ベンアリは経済繁栄をもたらした、たぐいまれな指導者ではないか。ネット情報の嘘に惑わされて指導者を追放するなど、チュニジア国民はネットの嘘の犠牲となった」と吠えた。リビアはチュニジアの隣国。真っすぐに影響が及ぶ。事実、2月17日には「41年にわたるカダフィの独裁」に抗議するデモが発生。完全に「部族対立」の様相となった。
イスラエルは、閣議でネタニヤフ首相が「連動してパレスチナに影響が出るかもしれないので警戒するように」との指示を出した。
その後、ジャスミン革命は西側の予想外の展開となり、地下から、ぬっとイスラム原理主義過激思想が表に出てきた。
チュニジアには3,000社ほどのフランス企業が進出しており、それで年率6%前後のGDP(国内総生産)成長があり、治安は保たれた。ベンアリ大統領一家逃亡後、チュニスやほかの町々で起きたことは、1979年のイラン革命に酷似してきた。なぜなら暴徒は富裕層を襲撃し、富を取り上げ、企業を脅し、イスラム化へ向かっているからだ。背後にイランの謀略があると中東の情報通は分析する。