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社会

岡崎久彦 歪められた戦後の「歴史問題」 〔1〕

岡崎久彦(NPO法人岡崎研究所所長)

2014年02月17日 公開 2015年06月11日 更新

米国の初期占領政策が左翼によって増幅された

 どうしてこういう現象が起きたかというと、それは、米国の初期占領政策が、日本の左翼によって温存、増幅されたからである。しかも、それはその後、半世紀続いている。

 理由は簡単である。左翼勢力の目的は米国の初期占領政策とまったく同じだったからである。共産圏としては、いざという場合日本を取りやすくしておくのがその目的である。

 そのためには、物質的、精神的、法制的に日本から戦争を遂行する能力を奪う必要がある。その役割を、占領軍から、100%以上引き継いだのが日本の左翼勢力であった。

 もちろん、当時の日本社会党と共産党がその主力であった。社会党が政権を取ったのは、それも議会の過半数を制する多数党としてではなく、連立政権の一部としてではあったが、片山内閣(1947年5月24日~48年3月10日)と村山内閣(1994年6月30日~96年1月11日)の2回しかない。

 その間、共産圏諸国の利益を代表し、憲法擁護の旗印の下に米国の初期占領政策を護ったのは、主として、労働組合、特に、教育、出版、新聞関係の労働組合であった。

 1949年、中国共産党が中国本土を席巻し、1950年には、北朝鮮軍が韓国に侵入して朝鮮戦争が勃発し、東アジアが自由共産両陣営対立の主要舞台となるにつれて、各組合の共産圏側に与する活動が活発化した。

 日教組は、1951年1月に開いた中央委員会で「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」という方針を決めた。

 マッカーサーは国家警察予備隊の創設を指令して、再軍備に道を開き、日本を「反共の砦」と位置づけた。また、米軍基地を許容する日米安保条約の締結に向けて動き出した。

 これに対して、日教組は、「われわれは、一切の武力を放棄することを宣言した憲法の大原則を確認し、如何なる国に対しても戦争に導く要素となる軍事基地の提供には断固反対する……」。

 日本政府も連合国軍による占領終了に伴う主権回復を前にして、「日の丸」「君が代」「道徳教育」復活などの教育政策を志向し始めた。

 これに対して、1950年(昭和25年)以降、日教組は、国旗掲揚と国歌斉唱の強制に対して反対を決定した。

 国旗掲揚と国歌斉唱を義務付ける法律が、数々の抵抗を押し切って通過したのは、敗戦後50年以上を経過した1999年の小渕内閣の時であった。しかし、それでも済まなかった。その後は、各教職員組合から、相次いでその法律について違憲訴訟が起こされ、それが最高裁まで持ち込まれて、結審を見たのは、やっと2011年になってからであった。

 日本の国歌が各学校で普通に歌われるようになるのには、実に戦後60年かかっている。それはアメリカ、英国を含め、世界のどこの国でも考えられないような反国家主義の跳梁を示している。

 戦後の日本の政治情勢の流れの中で、この種の左翼反国家主義、具体的には、憲法改正反対、国防力増強反対、日米同盟反対の運動が頂点に達するのは、いわゆる60年安保騒動、70年安保騒動であった。

 60年安保条約は、占領が終わって平和条約を結ぶ際に同時に結んだ不平等性が強い旧安保条約を改定して、より独立国にふさわしいものにするためのものであり、誰も理論的には反対し得ないものであった。しかし、共産圏の利益を代表する左翼は、日米同盟の存続そのものに反対であり、条約の改正を機に大反対運動を巻き起こした。

 そして、この運動の実際の尖兵となったのは学生運動であった。もっとも学生運動は、その頃の、世界的趨勢といえるかもしれない。

 隣の韓国では、李承晩大統領が追放されて(1960年)、朴正熙の軍事政権が始まるのが1962年である。そして、60年代後半は、米国でベトナム反戦運動が荒れ狂い、フランスでは68年にはやがてドゴール大統領を退陣させる五月革命が起こっている。すべては、学生運動から始まっている。そういう時代であった。

 学生主導であるから、元より論理は未熟であり、矛盾撞着している。それは、まさに、キッシンジャーがベトナム反戦運動について厳しく指摘しているところである。

 単なる若い情熱のはけ口に過ぎなかったとはいえるが、それが、米国ではベトナム反戦世代、フランスでは68年世代、日本では全学連(1960年)、全共闘(1970年)世代として、現代の支配層の中にも残っている反体制思想の源となっている。日本の場合は、それからも教育労組による偏向教育が続いたためその後の世代にも影響が残っている。

 実は日本では70年安保問題で、左翼反体制運動は引き潮に入った。1969年、東大の安田講堂を占拠した学生が、警視庁機動隊によって排除され、年末の選挙では、自民党が300議席の大勝利を収め、国民世論の動向は明らかになった。そして翌1970年は大阪万博の年であり、国民挙げてのお祭り騒ぎとなり、反体制運動も左翼運動もまったくといって良いぐらい影を潜めてしまった。

 

1970年代に「戦後」は終わっていた

 ここで特筆すべきは、その後10年間国際的にいわゆる日本の歴史問題なるものは、まったくなかったということである。つまり、「戦後」は終わっていたのである。

 戦争の記憶というものは、世代経てば消えるものである。

 ワーテルローは1915年である。その後約1世代は、いわゆるレアクシオンの時代であり、ナポレオンは、コルシカ生れの下賤な侵略者として非難された。スペインのゴヤの絵のテーマはスペインにおけるフランス軍の残虐行為を描写してあますところない。まさに南京事件記念館の19世紀版である。

 しかし、フランスでは、戦後1世代経った1840年にはナポレオンの遺体はレザンヴァリードに安置され、やがてナポレオンは、フランスの栄光を輝かした英雄として復活し、その歴史観は現在に至っている。『レ・ミゼラブル』の中で、それまで共和派だったマリユス青年が、ナポレオンの栄光に目覚め、ボナパルティストになる逸話もある。

 現在、歴史問題は、日本が戦後70年間放置して解決をしなかった問題だといわれている。ところが、1970年代は、それはもう過去のこととなっていた。

 1980年という年、1年間を取ってみると、私は、外務省から防衛庁に出向し、その間、国会で300回は立って答弁したが、日本の戦争の過去の歴史問題が取り上げられたことは皆無である。それは、議事録を取り寄せてみればわかる話である。

 その後、日本は歴史問題を解決していないとか、十分に謝罪していないとか論じているアメリカ、欧州、韓国、中国の政治家、評論家、学者に対して、私は何度も国際会議で、設問を試みた。すなわち、「皆さんの中で、たとえば、1980年という1年間を取ってみて、一人でも一言でも日本は戦争の歴史を清算していないという趣旨の発言をした人がいれば証拠を示して下さい」と。いまに到るまで、誰一人、反証を挙げていない。

 つまり、歴史の前例の通り、戦後1世代を経て、戦争の記憶は過去のこととなっていたのである。そして、こうしていったん過去となった問題が復活した発端は、すべて、日本人の手によるものである。

 それは事実であるが、その理由は、いままでに、誰も分析していない。私個人の仮説を申し上げると、70年安保で反体制左翼は完全に逼塞してしまった。学生運動に参加した人々は、一般の会社には就職が難しく、数多くがジャーナリズムの世界に入った。その世代が10年経って、新聞社、通信社の中で第一線に出てくるようになったのが、主たる理由ではないかと思っている。就職せず大学に残った学者についても同じようなことがいえると思う。つまり全共闘世代の反撃、それも、日本国内では支持がないので、問題を外国に持ち出しての反撃ではなかったかと思う。

 現にその後の歴史問題の提起は、悉く日本のジャーナリズムから外国への働きかけに発している。

 発端は、1982年の教科書検定問題である。高等学校用日本史教科書において、中国・華北への「侵略」という表現が、文部省の検定で「進出」に書き直されたと日本テレビの記者が報道した。それはすぐに誤報だとわかった。問題の教科書では、初めから「進出」と書いてあったのである。しかし、この報道は広く報じられ、中国と韓国が抗議して外交問題となった。

 これに対して、政府は、それを誤報と知りつつ、当時の宮沢官房長官談話として決着を図り、その結果、「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」が基準とされ、以後、日本の教科書に対する近隣諸国の介入の端緒を開いた。

 靖国参拝問題こそ、戦後の未処理の問題ではまったくない。1985年の中曽根総理参拝まで、戦後の総理は60回参拝し、一度も国際問題となったことはない。ただ、1975年には、8月15日に参拝した三木総理は、公式参拝か私的な参拝かと問われ、私的参拝と答えた。そして、その秋の国会で、天皇のご参拝が私的であり得るかどうかが議論された。その後の経緯は宮内庁内の決定なので資料はないが、宮内庁が、天皇に関するあらゆる政治議論を避けるために、大事をとって、天皇のご参拝は中止し勅使の派遣だけに止めることとしたのは十分想像される。

 中曽根総理の靖国参拝中止は、日本側の工作によること明らかである。85年の総理靖国訪問の前から『朝日新聞』は、訪問反対のキャンペインを始め、この問題で初めて中国の批判を引き出すことに成功した。そして、社会党の訪中団も靖国問題に対する中国の介入を要請した。その結果、中曽根総理はその後一度も参拝していない。

 それが、靖国参拝問題に対する外国の介入の発端である。それ以降は、一部英米のマスコミで日本の総理の靖国参拝は右傾化の象徴のように報じられるようになったが、それは1985年まで敗戦後40年間まったくなかったことである。

 現在では、A級戦犯の合祀が、靖国参拝反対の理由の一つとされているが、合祀は1978年であり、その際如何なる国際的反響もなく、その後、戦後最もリベラルな自民党総理だった鈴木総理は9回、中曽根総理は10回靖国参拝を続けている。

 こうして、82年の教科書問題と85年の靖国参拝問題では、日本のマスコミが先導して外国の干渉を招き、それを政府の政策にまで反映させることに成功したが、それが将来この問題が国際的に爆発する導火線となった。その転機は80年代末に来る。

〔2〕につづく

<掲載誌紹介>

2014年3月号

総力特集「靖国批判に反撃せよ」では、小川榮太郎氏が「靖国参拝は純粋に精神的価値であって、外交的な駆引きが本来存在しようのない事案」と喝破する。岡崎久彦氏は靖国参拝問題も従軍慰安婦問題も、実は日本(のメディア)から提起され、戦後の歴史問題が歪められたと説く。在米特派員の古森義久氏は「日本側としては米国や国際社会に対して靖国参拝の真実を粘り強く知らせていくべきだ」という。長期戦を覚悟のうえで、世界の理解を得るしかない。
特集「日本経済に春は来るか」では、(米国の)金融緩和の出口戦略の難しさをどう解釈するか、(日本の)4月からの消費税増税の影響と成長戦略について考えた。

著者紹介

岡崎久彦(おかざき・ひさひこ)

NPO法人岡崎研究所所長、外交評論家

1930年、大連生まれ。東京大学法学部在学中に外交官試験に合格し、外務省入省。1955年ケンブリッジ大学経済学部学士および修士。防衛庁国際関係担当参事官、初代情報調査局長、駐サウジアラビア大使、駐タイ大使などを歴任。1992年退官。著書に『日本外交の情報戦略』(PHP新書)ほか多数。

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