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社会

岡崎久彦 歪められた戦後の「歴史問題」 〔2〕

岡崎久彦(NPO法人岡崎研究所所長)

2014年02月17日 公開 2024年12月16日 更新

『Voice』2014年3月号より》

 

日韓歴史問題は解決可能である

 

 韓国では1988年盧泰愚大統領が就任し、言論自由化を進めた。それまでも、韓国では李承晩大統領時代以来徹底した反日教育を行なっていたが、他面国の外交政策を阻害するような言論は統制されていた。

 ところが、言論の自由化と、折から、日本のマスコミによる反日言動を引き出すための設問とが重なって、対日批判は一挙に噴出した。もう、日本を批判しない人間は非国民であった。

 当時の対日批判の激しさは、現在の朴槿惠政権と同じかそれ以上だったように記憶する。

 当時、私の旧知の友人はいっていた。

「日本のことは聞かないでくれ。聞かれれば批判しないと、自分を守れない」と。

 日本側では、私の友人たちで、それまでは日本の知識人の間の左翼北朝鮮支持の風潮に対抗して、韓国や韓国の留学生を庇っていた佐藤誠三郎東大教授のような人々までが韓国に対して挫折感を抱いたのはその時期だった。

 実はこの時の対日批判は、いったんは収まる。1998年訪日した金大中大統領は、日本側の「お詫び」を受け入れ、それ以降は「韓国政府は、過去の問題を持ち出さないようにしたい。自分が責任をもつ」と言明した。この約束は堅持され、その後、2001年に「新しい教科書」で問題が再燃するまで、2年間、首脳、閣僚レベルで対日批判はまったくなかった。

 この例は、日韓歴史問題は解決可能であり、また、現にいったんは解決されたことを示すものである。

 中国では、最大の転機は、1989年の天安門事件であった。学生たちの自由民主化運動を弾圧した中国政府は、運動に同情的だった趙紫陽を江沢民に代え、自由民主化運動に代わるものとして愛国主義を鼓吹した。

 愛国主義は、如何なる国民の間にも自ずから存在するものであり、これを政府が鼓吹すれば必ず燃え上がるものであることは、戦前の日本、ドイツなど、すべての国民について共通にいえる。

 まさしく、この運動は100%成功した。天安門事件後、数年のうちに、逐次釈放された学生運動家が、以前の仲間に会って、「もう一度やろう」というと、「いまはもうそういう時代ではない。台湾を回復して100年の雪辱を果たすときだ」という返事が返って来て挫折したという。そういう人々の多くは、――天安門時20歳として、現在40代半ばの人々の多くは――現在の中国に絶望して、アメリカや日本に亡命している。

 折から1995年は、日清戦争終結から100年、日本の敗戦から50年を迎え、中国政府は愛国主義運動に拍車をかけた。各地に反日記念館が増設され、内容が拡大するのはその時期である。

 実は、反日記念館の建設についても、その背後には、1980年代の初めから、日本の左翼の工作があった。

 日本社会党委員長を務めた田辺誠は、南京大虐殺の記念館を建てるよう中国側に示唆し、中国側が難色を示したのに対して、田辺は、1983年には総評から3000万円の建設資金を南京市に寄付した。実はそのうち建設に必要なのは、870万円であり、その他は共産党幹部への寄付となったという。

 そして、鄧小平は1985年2月に南京を視察に訪れ、建設予定の記念館のために「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の館名を揮毫し、鄧小平の視察直後に記念館の建設が着工され、抗日戦争終結40周年に当たる同年8月15日にオープンした、という。

 その後、中国の反日運動はエスカレートして、2001年には、愛国主義教育を推進する法律が制定され、各学校の教育はその綱領に基づくことになり、全国には愛国主義教育基地が設けられたりした。

 現在、中国の愛国主義運動は、特に習近平の反自由主義・民主主義運動の道具として、ますます強化されつつある。

 

日本から提起された従軍慰安婦問題

 従軍慰安婦問題こそ、日本から提起された問題であるが、それは、それまでは無名だった日本人評論家の売名行為から発する。

 1983年吉田清治は、『私の戦争犯罪』を上梓し、済州島で200人の女性が従軍慰安婦として拉致されたと証言し、それは1989年には韓国語に翻訳された。しかし、吉田の韓国語訳が出た1989年に『済州新聞』の許栄善記者は、「250余の家しかないこの村で15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」という済州島城山浦の85歳の女性の証言を紹介し、吉田の著作には「裏付けの証言がない」として、吉田のいう済州島での「慰安婦狩り」は事実無根であり、吉田の主張は虚偽であると報じた。

 また、済州島の郷土史家金奉玉も、「何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と、数年間の追跡調査で吉田証言が事実ではないと批判した。

 しかし、これらの『済州新聞』での批判記事は、1992年に日本の歴史学者秦郁彦が許栄善記者の証言を得て、日本の新聞、雑誌で紹介するまで知られることはなく、その間強制拉致説は歴史的事実として独り歩きし、韓国内の対日批判は燃え上がり、日韓関係の障害となるまでになった。

 当時の日本の内閣は、歴代の自民党政権の中でも、最もリベラルに属する宮沢政権であったが、何とか韓国を宥和して、日韓関係を正常化しようとして、加藤紘一、河野洋平の2人の官房長官談話を相次いで発表した。その時は韓国側も何らかの謝罪の意思表示があれば、慰安婦たちへの補償は求めないし、それで解決しようという意向のようであった。

 こうした双方の思惑による妥協的産物が、いわゆる河野談話の公表である。

 河野談話は、官憲による強制連行の証拠が無いことは認めつつも、それを認めないと事態の打開は困難であると認識して、慰安婦の「募集・移送・管理等の過程全体をみると、本人たちの自由意思に反して行われたこと」を認めるという玉虫色の内容になっていた。

 あらゆる組織、団体行動で、自由行動に制限があることは当然であるから、一見すると無害な談話のように見えたが、この表現は、日本が強制連行を認めた証拠だとして後年まで利用されることになる。事態を一時凌ごうとした小智恵がその後何十年の禍根を残すことになる。

 この問題はその後国際問題となるが、それを提起した発端も日本人または日系米人であった。1992年、従来とも左翼的偏向の強かった日本弁護士連合会は国連へのロビー活動を開始し、「国連人権委員会」に対して、「日本軍従軍慰安婦」を「性奴隷」として国際社会が認識するよう活動した。そして、1996年のクマラスワミ報告書では「軍隊性奴隷制(military sexual slavery)」と明記されるに至った。

 2007年日系の下院議員であるマイク・ホンダは、河野談話で日本官憲の加担が認められたとして、対日非難決議案を出している。

 もうこの時期においては、日本の立場は決定的に不利となっていた。当初は、軍の関与による強制性があったかどうかが問題であったが、時代は変わって、軍による売春施設そのものが人権侵害とされるようになったからである。

 兵士の外部に対する性的暴行を抑制するために軍隊用の慰安所を設けることは、米軍を含め各国の軍隊の慣用であったが、それが罪悪として断罪されるような時勢となっては、この問題で日本の勝ち目はなかった。

 このような歴史問題を収拾しようという努力もなされている。

 2006年の日中首脳会談において、日中の権威ある学者の間で、共同の歴史研究が行なわれることが決まった。それは4回行なわれ、2010年には報告書が提出されている。

 その結果は、双方の意見の一致しない箇所は両論併記とするなどして、一応の学術的報告の形として残っている。

 ただし、2002年から2005年までの間に行なわれた日韓の歴史共同研究では、韓国側は日本が提示した原資料の閲読そのものを拒否するなどして、学問的に意義のある報告は作成されなかったという。

 

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日本自身の反政府運動

著者紹介

岡崎久彦(おかざき・ひさひこ)

NPO法人岡崎研究所所長、外交評論家

1930年、大連生まれ。東京大学法学部在学中に外交官試験に合格し、外務省入省。1955年ケンブリッジ大学経済学部学士および修士。防衛庁国際関係担当参事官、初代情報調査局長、駐サウジアラビア大使、駐タイ大使などを歴任。1992年退官。著書に『日本外交の情報戦略』(PHP新書)ほか多数。

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