思考は、書くにつきる~「自分」で考える技術
2014年05月01日 公開 2022年12月21日 更新
《新書版『「自分」で考える技術』より》
書くことは、思考の最短コースである
読めて分かる教育、の障害
私たちは、外国語ばかりでなく、国語、数学、社会、理科、その他の科目も、読めて・分かればいい、というやり方でやってきました。大学にゆくと、この傾向は、さらに強くなります。企業や、官庁に就職しても、ことはそれほど変わる、とはいえません。
読めて・分かる教育の基本は、大意に間違いがない、ということです。漠然とした雰囲気が分かればいい、といういき方です。「今日の天気は、晴れ、後、曇り」というようなものです。当たらずとも、遠からず、というやつですね。もちろん、大意に間違いがない、といういき方の効用は絶大です。もともと、言葉とそれがもつ意味は、多義的です。ある特定の思考が、1つの意味しか表現しない、などということは、特殊な専門領域以外では、通用しないのです。
しかし、大意に間違いがない、雰囲気は分かる、式のいき方は、ものを追い詰めて考えるいき方の、手前で立ち止まるのが普通なのです。相手、ないし、集団のなかで共有されている感情や規範を超えてゆく力に乏しいのです。自分一個の判断で、きっちり考え、ぴしっと表現し、敢然と行動することが苦手であり、躊躇しがちになるのです。
「なぜ大学に進学するのか」という問いに、きっちり答えることは、大変困難です。どう答えても不十分です。学問するためだ。よい就職をえる、4年間を楽しむ、友人をえる、……、さまざまな理由をあげることができます。でも、これ、という答えを発見することは、できそうにありません。どれも、間違っていないが、はまってもいません。
「みんながゆくから」ではないのか、と水を向けると、ほとんどの学生は、弱く頷きます。しかし、「みんながゆくから、自分もゆく」ということが、どういうものか、追い詰めて考えるところまでは、進まないのです。分析してゆくことを、端折るのです。
分析していったからといって、必ずしも、答えが出るわけではありません。出ないほうが多いのです。大づかみにとらえたほうが、比較して、近い答えをうる可能性が高いのです。しかし、分析の後で、答えが出ないというのと、答えは出しようもないという雰囲気のなかで、分析を端折るというのとでは、相当の開きがあります。
誰にでも通じる表現
もとより、雰囲気は大切です。周囲の空気と無関係に、話したり行動したりすると、完全に浮いてしまいます。見当外れになります。しかし、仲間意識や雰囲気だけを頼りに生きていると、何かを、自分で、きっちり考えることができない、ということで終わります。雰囲気が通じないところと、接触したり、交流することができなくなります。社交や外交が苦手になります。
きっちり考えないことと、きっちり表現しない、ということとは、ひとつながりです。表現とは、外に出すことです。実際に、話したり、書いたり、演じたりすることです。他人の目に触れる、ということでもあります。きっちり考えていなければ、きっちり表現できません。しかし、きっちり表現できなければ、きっちり考えている、というわけにはいかないのです。
いおうとしていること、書こうとしていること、すなわち、考えは、まとまっている。しかし、上手く話せない。的確に書くことはできない。話す技術、書く技術が、そのために必要だ。こういういい方が、よくされます。でも、表現される以前の「考え」は、まだ、カオス状態の考えにすぎないのです。もやもやしたもので、思考とはいい難い「何か」なのです。ですから、上手く話せない、的確に表現できないというのは、思考にいたっていない、ということなのです。思考とは、表現のなかにしか、話す技術、書く技術等のなかにしかない、と考えていいのです。
表現で一番大切なのは、誰にでも通じる、ということです。「通じる」とは、ただちに分かる、ということだけではありません。重要なのは、きちんとたどれば、誰でもゆき着くことができる、ということです。
話せば分かる、といいます。話は、誰にでも通じるやり方の王者、ということでしょう。相手の心の襞にまで届くような通路を、会話はたどることができます。でも、比較すれば、話は、流動的です。分かったようで、分からなくなります。結論をえたようで、結論を失ってゆきます。
思考は、書くにつきる
思考は、表現だ、といいました。それぞれの表現は、他のすべての表現に代替可能です。話すことは書くことで、演じることで、描くことで、というようにです。しかし、程度の問題からいえば、書くことは、他のどんな表現をも代替する力に優れている、といっていいと思います。話すこと、演じること、描くことを、書くことで代替できるだけでなく、他の表現よりも、上手く代替できる、ということです。
ごく簡単にいうと、きちんと考えているか、漠然と考えているかは、書いてみれば分かる、ということです。誰にでも通じる考えか、独り善がりの考えかどうかも、書いてみれば、一目瞭然、分かります。お互いの会話のなかでは、簡単に分かりあえたと思っていたが、それがどんなものだったのかも、書いてみれば、その困難さも含めてよく分かります。
書くことがすべてだ、書けなければ駄目だ、などといっているのではありません。書くことは、人類の表現のなかでは、むしろ若いほうです。それに、すべての人が書くようになったのは、つい最近です。ですから、書くことは、予想以上に難しいと思われています。まだ十分に慣れる段階に達していないし、普及もしていないからです。
でも、思考は、簡便か、困難か、の問題に決着はついていません。しかも、的確で、説得的かどうか、が思考の中心問題なのです。この思考の要の問題を突破するためには、書けなくては駄目だ、といいたいのです。実際のところ、よく考えるための最短コースは、書くことにある、と断言できます。たくさん読んでも、あれこれ話しあい、議論しあっても、どれほどパフォーマンスを繰り返しても、明晰判明で、ふっくらした説得力をもつ思考に達するためには、書いてみなければならない、ということです。
思考の技術を、書く技術に還元すべきだ、などとはいいません。しかし、思考を伸ばそうとするならば、思考の思考たるところを、知り、かつ、習得しようと思えば、書く技術を獲得することに優るものはない、といいたいのです。
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<著者紹介>
鷲田小彌太(わしだ・こやた)
札幌大学名誉教授、哲学者
1942年、札幌市生まれ。大阪大学文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科哲学・哲学史専攻博士課程満期退学。三重短期大学教授を経て、札幌大学教授。専門は、哲学、倫理学。2012年退職。主な著書に『ヘーゲル「法哲学」研究序論』(新泉社)『天皇論』『吉本隆明論』(以上、三一書房)『現代思想』(潮出版社)『倫理がわかる事典』(日本実業出版社)『大学教授になる方法』『「やりたいこと」がわからない人たちへ』(以上、PHP文庫)『日本を創った思想家たち』『晩節を汚さない生き方』(以上、PHP新書)『ビジネスマンのための時代小説の読み方』(日経ビジネス人文庫)『定年と読書』(文芸社文庫)『日本人の哲学』(言視舎)などがある。