イタリアサッカーのダービーマッチは、なぜあんなに熱いのか?
2014年07月02日 公開 2024年12月16日 更新
※本稿はサッカーマニア・ラボ著『[図解]ワールドカップで世界がわかる』より一部抜粋・編集したものです
★セリエAの激しいライバル開係は、イタリア史を紐解けばわかる!★
イタリアサッカーは都市国家同士の代理戦争
イタリアの国内リーグ・セリエAでは、ミラノダーピー(ACミラン対インテル)やローマダービー(ASローマ対ラツィオ)など、同じ都市に本拠地を置くクラブ同士のダーピーマッチが大いに盛り上がるが、ミラン対エベントス、インテル対ローマなど、地域を代表するビッグクラブ同士の試合も非常に熱い。
ミラノっ子ならミラン、トリノっ子ならユベントスといった具合に、ほとんどのフアンが“おらが町”のクラブを応援するため、リーグ戦はまさにスポーツの枠を超えた都市間の代理戦争の様相を呈している。
それもそのはず、イタリアは都市間の対抗意識が極めて強いのだ。その証拠に、イタリア人の多くは自分のことをイタリア人と思っておらず、ミラノ人、フィレンツェ人、ジェノバ人、ローマ人、ベネッィア人と思っている。
スペインのように1国のなかにカタルーニャ人やバスク人、ガリシア人、カスティーリヤ人など多数の民族が暮らす多民族国家というわけではないが、都市ごとの意識が極めて強いのだ。明治時代以前の日本には、自分を日本人と思っている人は少なく、ほとんどの人は「薩摩人」「土佐人」「尾張人」などという意識でいたといわれている。これと同じ感覚である。
イタリアがこうした状況になった原因は、イタリアという国の成立過程を知ればよく理解できる。
イタリアという地名は中世の頃からあったが、現在の統一国家の形になったのは1861年のことだった。いまから150年ほど前だから、比較的若い国といえるだろう。
それまでの数百年間は北部にはベネッィア共和国、フィレンツェ共和国、ジェノバ共和国、ミラノ公国、サンマリノ共和国(現存)などの都市国家が分立、南部にはナポリ王国やシチリア王国、ローマ教皇領などの領域国家があって、それらが互いに戦争を繰り返していた。
その歴史は統一国家になってからも人々の記憶のなかに残された。そしてサッカーのリーグ戦が、かつての都市国家同士の戦争の代わりをすることになったのである。
欧州では、サッカーは労働者階級に人気があり、富裕層やインテリの間ではさほど人気がないというのが一般的だが、イタリア人はみな一様にサッカーに関心を寄せている。それもサッカーが都市国家同士の代理戦争になっているからだと考えられる。
ナポリ市民がアルゼンチンを応援した理由
イタリア内の対立は都市間だけにとどまらない。ローマを境界とする北部と南部の地域対立も存在している。いわゆるイタリアの「南北問題」だ。
もう一度歴史の話に戻るが、イタリアの北部と南部はまったく異なる歴史を歩んできた。
中世以来、北部では高度な自治を有する都市が多数発展したのに対し、南部では王国の強大な権力を背景にした貴族たちが実権を振っていたため、封建的な社会が確立された。 その結果、北部は次第に経済力を高めたが、南部は経済のみならず社会的・文化的にも北部に遅れをとってしまった。
こうした南北の格差はイタリアが統一国家になってからも続き、経済的に裕福な北部と貧しい南部という図式が定着。現代においても北部と南部の経済格差は解消されることなく、南北の人々は対立するようになった。北部では北部同盟という地域政党が南部からの独立を主張したくらいだ。
南北間題はサッカーにも現出した。1990年のイタリアワールドカップ準決勝で、イタリアとアルゼンチンが対戦したときのことである。
この試合は、南部の中心都市ナポリで行われた。アルゼンチンは1986年W杯での優勝の立役者、マラドーナを擁する強豪だったが、開催国であるイタリアが有利と考えられていた。
しかし、イタリアにホームアドバンテージはほとんど存在しなかった。北部に反感をもつナポリの人々が自国の応援をせず、当時ナポリに所属していたマラドーナのアルゼンチンを応援したからだ。結局、イタリアはPK戦の未に敗戦。南北対立の根深さを改めて知らされることになった。
最近も2014年2月にローマのサポーターがナポリに対して、地域差別的なチャントを行ったとしてゴール裏スタンド閉鎖の処分を受けている。日本ではあまり知られていないが、イタリアでは南北対立がかなり深刻な問題になっているのだ。